ギフテッドを身近に抱える人間ならば、どうしたって気に留めずにはいられない映画作品。
それが、クリス・エヴァンス、マッケナ・グレイス主演の「gifted/ギフテッド」。
元々、2017年春に僅数の映画館による先行上映という形を取っていたのにも関わらず、その後、じわじわ全米各地へと上映回数を増やし、静かなヒットにまでなった話題作です。
その初公開に遅れること、半年余。
アメリカ、ホリデーシーズン幕開けともなる感謝祭当日の11/23(木)、日本でも遂に封切りとなってくれました。
いやー、実際、わたしも、ギフテッドチャイルドを持つ親として、期待と不安の入り混じった感情を抱きつつ、春先の映画館に足を運んだわけなんですけどね。

アメリカの映画館に置かれたポスター
水を差すようであれですけど、個人的評価は、ぎりぎりで 程度だったかな、と。
表面的には、家族の意義や個人の価値といったものを問う感動ストーリーになっていますので、それなりに見る価値はあろうかと思います。
ただ、話が極端にメロドラマ風だったり、現実離れしていたり、空洞だったり、ステレオタイプ的だったりと、一つの芸術作品としては、どうしても違和感を拭えない部分が多すぎましたね。
そして、何よりも、ギフテッド=天才、ギフテッドスクール=英才教育を施す学校、といった誤ったメッセージを図らずも発信してしまっているのではないか、という疑念を残したままでした。
この二つの要因が、わたしにとってはどうにも邪魔になってしまって、諸手を挙げて、映画「gifted/ギフテッド」を賞賛するまでには、残念ながら至らなかったですね。
逆に、一定のギフテッドコミュニティーの面々からは、概ね、高評価をもらっていましたし、人によっては、「絶対にティッシュを一箱持って見に行ってね!(つまりは、大泣きするから)」と大絶賛もしていましたよ。
その辺りのギャップの「なぜ?」について、ギフテッドコミュニティーの見解も含め、わたしなりの目線と解釈とでビシバシ語ってみたいと思います。
目次
- 1 映画「ギフテッド」のあらすじ
- 2 そもそも、ギフテッドって何よ?
- 3 映画予告を見てのわたしの反応:アメリカ版
- 4 映画予告を見てのわたしの反応:日本版
- 5 アメリカ、ギフテッドコミュニティーの反応
- 6 アメリカ、ギフテッドコミュニティーの視点
- 7 わたしの評価が星3つなのは
- 8 映画「ギフテッド」の良かった点①
- 9 映画「ギフテッド」の良かった点②
- 10 映画「ギフテッド」の良かった点③
- 11 映画「ギフテッド」の問題点①
- 12 映画「gifted/ギフテッド」の問題点②
- 13 映画「gifted/ギフテッド」の問題点③
- 14 映画「gifted/ギフテッド」の最大の問題点
- 15 ダイアン、あなたは何処に?
- 16 もしかして、泣きのパターンがあった?!
- 17 こんな解決法もありかも?
- 18 最後に、ギフテッドの親として伝えたいこと
映画「ギフテッド」のあらすじ

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
天才数学者でもあった、亡き母の能力を受け継いで生まれたメアリー(7歳)。母の死後、その弟である叔父のフランク(30歳)に引き取られ、それなりに平和な毎日を過ごしていた。
が、メアリーの将来を案じるフランクの方針によって、地元の小学校に新入生として入学したことから、二人の生活が一変する。
初日から、メアリーの突出した数学的才能に端を発したトラブルの発生。
その後も、次々とメアリーが引き起こす一連の問題行動により、メアリーが数学の天才児であることが、同じく数学者でもあり、亡き母と叔父の実母でもある祖母、イブリンの知るところとなってしまう。
やがては、イブリンとフランクの間で、メアリーの親権を争う激しい裁判にまで発展。
この過程を通し、過去の自分自身とも向き合うことになるフランク。メアリーの幸せを想いながら、自身はどうあるべきか、何をなすべきかの決断を何度も迫られていくことになる。
そもそも、ギフテッドって何よ?
タイトルにもなっている「gifted/ギフテッド」という言葉、何となく謎めいた響きです。
その答えについては、映画「ギフテッド」の日本向けオフィシャルサイトが、こう表現しています。
<ギフテッド>とは?
生まれつき平均より著しく高度な知的能力を持つ人、またはその能力のこと。すべての分野に秀でていることは稀で、何かに特出している場合が多い。
かなりざっくりと括られていますけどね、まあ、大まかな意味合いとしては合っているんじゃないでしょうか。
他にも、サイト上には、7歳のヒロインについての描写として、「...突出した才能=ギフテッドを持つために、大好きな叔父から引き離されそうになる」とあるんですね。
でも、基本、「ギフテッドを持つ」という言い方はしないです。
正しくは、「そのgift/ギフトゆえに」、もしくは、「そのgiftedness/ギフテッドネスゆえに」、はたまた、「ギフテッドであるがために」といった辺りになるんじゃないでしょうか。
つまりですね、その奇異なフレーズから読み取れることは、ギフテッドやギフテッドの存在そのものが、概念として日本社会には浸透していない、ということです。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
わたしなりに、もう少し詳しくギフテッドについて説明してみますね。
ギフテッドとは、一言で言うならば、高機能な脳の特質を備えて生まれてきた人間のことを指します。
元々、脳内に十分な数と高密度の神経連路を持っているせいか、脳が様々な情報を処理していく方法やスピード、また記憶保存していく量が常人のものとは大きく異なっています。
そのため、彼らの感覚、視点、思考、言動、学習能力、そして、性格に至るまでが、大方の人間とは一線を画するものになります。
ギフテッドの人間は、この脳の特異性ゆえに、ダイヤモンドのカットにも似た、ギフテッドならではの多面的特徴を持ちますが、中でも際立って注目されるのが、その知能の高さ/IQの高さでしょう。
それ以外にも、OE(過度激動)という言葉に代表される、繊細さや傷つき易さ、激しさ、拘り、融通の利かなさなど、様々な面が存在します。
また、特に子供の頃には、アシンクロニー(非同期)と言われる、身体年齢、知的年齢、感情年齢、精神年齢がそれぞれにバランスの取れていない、アンバランスな状態が続きます。
よくありがちなのが、身体の成長は普通であっても、知的能力が非常に高く、その割には、感情面での成長が若干ゆるやかなこと。癇癪を起こしたり、喜怒哀楽の感情を露わにしたりと、同年齢の子に比べて若干の幼さを見せるケースです。
尚、この感情面については、年齢が上がっていくにつれて、本人がコントロールする術を学び、補正されていきます。
一概にギフテッドと言っても、ギフテッドの中にもレベルがあり、低い順から、Gifted(G)/Moderately Gifted(MG)、Highly Gifted(HG)、Exceptionally Gifted(EG)、Profoundly Gifted(PG)と区別されています。
ギフテッドレベルが上がれば上がるほど、知能レベルや、OE、アシンクロニーの度合い、またギフテッドの特徴がそれに比例して強くなっていくと考えられています。
そして忘れてならないのが、ギフテッドであることと、ギフテッドの特徴は、生涯を通じて、ギフテッドの人間に付いて回るということです。
それは、つまり、ギフテッドとして生まれたならば、その人生の途中に何かを成し遂げるか、成し遂げないかに関わらず、また周りに認められるか、認められないかにも関わらず、最後までギフテッドであり続け、そして、ギフテッドとして、その生涯を閉じるということでもあるのです。
映画予告を見てのわたしの反応:アメリカ版
こちらが、日本に先立ってリリースされた、アメリカ国内向けのオリジナルの映画予告です。
実際の公開を前に、この予告を見たときに、ふと感じた不安について、わたし自身が知人に向けて、こんな風に語っているんですね。
映画に関しては、一つ、こちらで4月に公開されるものがあるんですよ。タイトルがそのまんまの「Gifted」なんですけど。
興味があって、トレーラーを見てみましたけど、あれですね、ストーリーの方向性は軽く予想がついてしまいました。
対象の女の子が数学的ギフテッドなんですけど、あー、これ見たら、益々、ギフテッドへの誤解が進んでしまうんだろうな...と。
「グッドウィル・ハンティング」もそうでしたけど、ギフテッド=天才(ジーニアス)ではないので。
正直、ただ単に、こましゃくれた天才児のような描かれ方をしてほしくないんですよね。現実には、数学が苦手なギフテッドもたくさんいますし。
もっと、ギフテッドならではの、心の中の葛藤とか、OE反応とか、親の苦労とか、そっちの方を描いてほしいなあ、と。
その意味では、純粋なギフテッドではないにしろ、ダスティン・ホフマンの「レインマン」とかの方がリアリティーがありますよね。
あれ見たら、何て面倒くさい人間なんだ!冗談じゃない、やってらんないよ!って、周りは思うと思うんです。
そういうところを描いてほしい。それこそが、ギフテッドの親が直面する大きな現実でもありますので。
それでもって、映画では、多分、最終的には愛情が一番重要というところに持っていくと思うんですけど。
まあ、それは正しいことではありますが、でもねえ、ギフテッドのニーズというものも軽視してほしくないよなあ、と。
このストーリー、わたしの予想がいい意味で外れてくれるといいんですけど。
《知人に宛てて書かれたメール by 更紗》
映画予告を見てのわたしの反応:日本版
で、こちらが日本向けの予告。
もうね、笑っちゃうくらい、わたしの不安が的中しています。オリジナル版に更に磨きをかけて、ギフテッドへの誤解を煽ってくれていますよね。
この短い予告の中でさえ、「姪御さんはギフテッドかも」のはずが、「姪御さんは天才かも」と誤訳されてしまっているんですよ。
これ、映像翻訳家だけの問題なのかな、それとも、日本の配給会社の方針なのかな.....。
確かに、マッケナ・グレース演じるメアリーレベルともなると、「数学の天才」と描写してくれて全く問題無いんですけど、少なくとも、あのシーンの、あの時点では、あくまで、「ギフテッド」と訳すべき単語でしたね。
後々、フランクとボニーが交わす会話の中で、メアリーの能力に対しては、「数学のジーニアス(天才)だ」という表現が使われているくらいです。
しかも、何ですか、このキャッチコピー。わたし、聞いていて、腹立ったんですけど?
- ”本当の幸せ’’って何?
- いちばん大切なのは、〈愛する〉才能
いかにも、愛情こそが至上のもの、才能云々は関係ない、っていう方向に印象付けようとしているのかな、と感じてしまうんですが?
わたし自身が知人に宛てて書いたメールでも触れているように、愛が一番大切、それが根底にあるのは当然だ、と理解しているんです。
人の子の親ならば、誰しもがそうでしょう。
でも、その当たり前を敢えて言葉にしてしまっているところ、そして、賢しく洒落を効かせて、敢えて「〈愛する〉才能」と謳ってしまっているところにね、「努力や勤勉とは関係ないところで、生まれつき卓越した能力や領域を持ち合わせる人間が存在すること」、そして、「それらの人間には、特殊なニーズが存在すること」を軽視する気配をそこはかとなく感じてしまうんですね。
この「いちばん大切なのは、〈愛する〉才能」っていうキャッチフレーズ、ギフテッドやギフテッドの事情に明るくない人間が考え付いたものなんだろうな、って軽く予想がついてしまいましたよ。
だって、ギフテッドの子供を現実に抱えている家庭ならば、絶対にあり得ない発想の方向性ですもの。
わたしの立場から言わせてもらうならば、「愛情」か、「才能」かの究極の二者択一を匂わせることがそもそもおかしい、っていうことなんです。
この作品のクライマックスでは、主人公、フランクが、ヒロインである姪、メアリーに対しての父親(代わり)としての愛情ゆえに、自分自身の頑ななまでの思い込みを解きほぐして、メアリーのギフテッドとしての真のニーズに応えるべく、方法を模索し、選択しているんじゃなかったでしたっけ?

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
「愛情」or「才能」ではない。と同時に、「〈愛する〉才能」ですらない。
そこに「愛」があるからこそ、その愛情に促され、愛する姪のギフテッドとしての自然的欲求やニーズに応えることを選び、それを自分で行動に移しているんですよ。
この作品で描かれるのは、「愛情」=「相手への理解」であり、「愛」=「相手のための行動」なんです。
フランクが最後の最後にそういう選択をしているはずなのに、どうして、そういうキャッチコピーにするかな、というのが正直な感想ですね。
「愛情」と「才能」は、共存できるはずなんですよ。元々が対立しているものではないんですから。
ギフテッドという存在は、そもそもがマイノリティーですからね、作品の大衆受けを狙うためには、その「ギフテッド」のコアな部分を幾分ぼやかして、代わりに、家族のあり方、家族の姿というサブモチーフを前面に押し出す方向にシフトしたんでしょう。
制作側がはっきりと意図していたのかどうかは別として、この作品で本当に描かれているのは、
「レベルの違いはあれど、同じくギフテッドであろうフランクが、実姉や実母に絡む『過去の呪縛』という敵と、現在(姉を象徴する姪、母、自分)の世界で対峙し、途中、追い込まれ、追い詰められながらも、過去の自分が成し得なかった戦いを戦い抜いて、自らのアイデンティティーを再確立し、一人の人間として成長を遂げていく姿」
だったのだろうと思います。
だからこそ、そういった日本側のプロモーションの方向性には、個人的に引っ掛かりますよね。
アメリカ、ギフテッドコミュニティーの反応
実は、わたし、今年、初めてギフテッドセミナーなるものに参加してみたんですね。
そのセミナーでは、特に、Highly Gifted(HG)、Exceptionally Gifted(EG)、Profoundly Gifted(PG)という、ギフテッドレベルが高く、ギフテッドゆえの特徴を色濃く現している子供たちに焦点を合わせていまして、その中で、この映画「ギフテッド」が何度か話題にもなりました。
小中規模のセミナーでしたからね、この集まりが全ギフテッドコミュニティーの声を代弁していると言うつもりは、毛頭ありません。
ただ、このセミナーで出会った人達(その世界で、著名な方もいました!)の多くや、インターネット上でも有名なギフテッドブロガーさんなんかの声を聞く限り、
「凄く良かったよ。見に行った方がいい。でも、シアターに行くときには、絶対にティッシュを一箱持っていかなきゃダメよ!」
と主張されていたくらいですので、概ね、好意的に受け止められていた、と考えられます。
彼らの感想に耳を傾けていて、わたしが正直、驚いてしまったのが、ストーリーラインのメロドラマチックな流れに、わたしのような細かいツッコミを入れることなく、ただただ身を任せている人が多い....?という印象を持ってしまった、ってことなんです。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
わたしなんて、映画を見ながらも、いちいち気になって仕方がなかったクチなのに....。
まあ、それについては、ギフテッドコミュニティーならではの深い理由があったようですけどね。
わたしがセミナー初心者としての新鮮な目と感覚とで、まず最初に感じたことは、ギフテッドチルドレンを抱える親御さんたちには、心に大きな傷を負っている人が多いんだな、ということ。
簡単に言ってしまうと、ギフテッドの親たちは、手に負えないくらいに大変な、高ニーズ・高メンテナンスの子供たちと日々格闘し、自らのエネルギーを消耗しつつも、今度は学校側に対して、その子供たちを擁護するための行動を率先して取らねばならない、という立場に置かれることになるんですね。
学校にわざわざ何度も足を運んで、担任はじめ、教頭や校長、ときには教育委員会にまで書類を提出し、ギフテッドについての説明をし、理解を求め、カリキュラムや宿題に関してのリクエストを出し....。
子供が学校生活の中でギフテッドの特徴ゆえの失敗をすれば、親が何度でも頭を下げて学校側に謝った上で、専門家の診断書を片手にギフテッドの性質について説明して回り、家庭では我が子に対し、社会のルールを口を酸っぱくして教え....の繰り返しで、気の休む間すらない。
にも関わらず、しばしば教師の反感を肌で感じ、我が子へは「ナルシストだ」、「授業態度が悪い」、「これでギフテッドなんて笑わせてくれる」等のネガティブな言葉を投げかけられる。
しかも、実家をはじめ、親戚の面々や、友人知人たち、道を行く他人にすら、何かあれば、すぐに「親の躾がなってない」、「親が子供を甘やかしすぎだ」と言われ続け...。
ギフテッドの性質に対する、周りの誤解と知識の欠如。それに、自らの疲労と自信喪失。その上で、尚、ギフテッドの我が子らから絶え間なく発せられるニーズに次ぐニーズ。
誰かに相談したくとも、気軽に相談できる相手などなく、要らぬ誤解を受け、更に傷つけられることを恐れ、一人で抱え込むことに。
やがては、どこにもやり場のない閉塞感と孤独感とに苛まれていくようにもなっていく。
実は、これ、子供を一般の学校(公立・私立)に通わせるギフテッド家庭では、程度の差はあれ、よく見聞きするシナリオだと言えます。
未だ癒えぬ過去の傷がときにじくじくと痛んで、それが状況によっては、哀しみだったり、怒りだったり、フラストレーションだったりの形を取って表面に現れることがあるんですね。
映画でも、フランクがメアリーに対し、「たった5分でいいから、自由にさせてくれないか!」と声を荒げたシーンがありますが、ギフテッドの親ならば、必ず通る道でしょう。
わたし自身も、娘のことでは、「わたしの基本的人権は一体どこにあるのよ! 今すぐ、わたしの人権を保護してくれる人権団体を呼んできてよ!」と涙ながらに訴えたこともありました。
そして、これは、ギフテッドセミナーで一人の母親が語っていたことです。
以前、たまたま知り合いになった人に、自分はギフテッドの子の母親だと話したことがあったんです。すると、その女性がこう言ったんですよ。
「それは、本当にお気の毒に....」
その言葉を聞いて、ああ、この人はギフテッドがどういうものなのかを本当に分かっているんだな、って思いましたね。こんなことは初めてだったので、それを聞いて、思わず嬉しくなってしまったんです。
《ギフテッドセミナーにて、日本語訳 by 更紗》
アメリカ、ギフテッドコミュニティーの視点
そうした傷を抱えた親たちがギフテッドを扱った作品に求めることは、そう多くはないってことなんです。
それどころか、「完全でなくてもいいから、ギフテッドへの理解を示し、ギフテッドの生態を出来るだけ正確に、等身大で描いてほしい」という、たったそれだけ。
それ以上のことは望まないーーその姿勢自体が、今まで経験してきただろう彼らの傷の深さを物語っているように思えてならないんですけどね。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
彼らにとっては、合否の判断を下す材料として、以下のポイントが非常に重要になっているようです。
メアリーは、とってもチャーミングで愛すべき女の子ですけど、学校では、相当なトラブルメーカーでもありましたね。目上の人に対するマナーも、社会性も、まだまだ訓練がほしいところです。
メアリーの言動に見え隠れしたギフテッドの特徴というべきものを、作品内に絞って、ざっと挙げてみますね。
これらの特徴は、ストーリーの中であまり繰り返し強調されることもなく、流れ星のようにさーっと過ぎ去ってしまうため、よくよく注意していないと見逃すことも多いはず。
-分野によっては、その身体年齢に似合わぬ、明らかに突出した能力を発揮する。
-ずば抜けて優れた記憶力を持つ。
-しばしば、その行動や反応が度を越している。何事にも極端。
-我が強い。自己主張が強いとも言う。
-議論好きで、親代わりや教師に対しても口答えも多い。大人と対等に論じ合える。
-同年代の友人は少なく、知的・知識レベルの合いそうな年上や大人と時間を過ごしていることが多い。
-知的好奇心を刺激されないと、簡単に飽きて退屈してしまう。それが苦痛ですらある。
-興味関心のあることについては、とことん探究心をもって、答えを導き出そうとする。
-特に外向的なタイプ場合、おしゃべり好きで、延々と自らの議論を展開できる。
-機知に富んだ言葉の洒落や遊びを楽しめる。
-優れたユーモアのセンスを持つ。
-強いリーダーシップを発揮するため、ときに生意気に見られることも。
-自分が理解できていることを、相手が同じように理解してくれない場合、「何で、これが分からないの?」とイライラしがちにもなる。
-正義感が強く、フェアな精神を持っている。と同時に、弱者に対しては、深い同情心と共感を抱く。
-繊細で傷付きやすい。
-早い時期から、神や命について、また、人の生死と死後の世界等、スピリチュアルなことに興味を示す。
-しばしば、強い拘りを持つ。
-興味があることに対する集中力が凄まじい。集中しているときには、その邪魔をされることを酷く嫌う。
-自分の好奇心・興味関心に没頭するあまり、家庭内の約束事や社会のルールを忘れてしまうことがある。
-ときに落ち着きが無い。
-周りが目を見張るくらいにエネルギッシュ。
-自分から好んで、LEGOやジグゾーパズルで遊ぶ。
ストーリーの最後で、フランクはメアリーにとっての相反する2つのニーズを、両者、別々に叶える方法を選択をしています。
即ち、ギフテッドとしての知的好奇心、探究心、また刺激の必要性に応える手段として、メアリーが高い能力を提示している数学に関しては学年をスキップし、その突出した能力に合わせて、大学での講義を受けさせることを由とした。
一旦、数学の授業が終われば、年相応レベルで履修すべき科目や社会性を、元の小学校で学ばせた。
このことが、ギフテッドコミュニティーにとっては、非常に大きな意味を持ってくれました。フランクが行き着いた結論は、「ギフテッドとしての能力」か、「子供らしさ」かの二者択一ではなく、どちらをも同時に満足させる、より良い選択になってくれた、と。

ギフテッドのニーズというものに敬意を払った選択を提示し、それをハッピーエンディングへと繋げたからこそ、ギフテッドコミュニティーに、この映画「ギフテッド」が高く評価される結果となりました。
わたしの評価が星3つなのは

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
うーん、やっぱり、あれですよ。必ずしも、ギフテッドの見地からだけで判断しているのではない、ということでしょうかね?
そりゃ、個人的には、ギフテッドの要素も重要ですし、それを満足させてくれるに足るリアリティーあるシーンがたっぷり欲しいぞ、と感じるところですけど、ただそれだけじゃないってことです。
一つの芸術作品として見たときの完成度とか、メッセージ性だとか、そちらの方を重要視したいな、と。
ちなみに、わたしが映画館で初めて「ギフテッド」を見終えたときの印象を、同じ知人に宛てて、さらりとギフテッド観点から語っている文面があります。そこでも、拍手喝采には至っていない、ということが文章の端々に滲み出ているはず。
映画「ギフテッド」は、予定通り、本日、鑑賞して参りましたよ!
一つ言えることは、映画のタイトルは変えた方がいいんじゃないか、と。「Gifted/ギフテッド」ではなく、「Prodigy/神童」の方が合っているように思います。
7歳のヒロインが解いている数式は、少なくとも、カレッジレベル。(多分、大学院レベルだと思います)。
このヒロイン、広い意味でのギフテッドには間違いないですけど、少数の中でも超少数の、天才児か神童レベルです。数学分野に限ってですけどね。
面白いのが、この能力というのがですね、なぜか、母系遺伝で、女の子だけに[強く]受け継がれている点です。
祖母→母→ヒロイン
祖母、母共に、そのパートナーはギフテッドという感じではないんです。となると、ここまで強い遺伝にはならないはず。 それに、姉がギフテッドならば、弟(主人公)もギフテッドである可能性の方が高いんです。なのに、そこにはあまり強く触れていなくて....。
《知人に宛てて書かれたメールより by 更紗》

わたしが思うに、天才(genius/ジーニアス)とは、ギフテッドの中でも、おそらくは、一番レベルの高いProfoundly Giftedの中に存在するのではないか、と。
それ以外のギフテッドを天才と称することには、正直、躊躇してしまいます。
専門のIQテスト結果などでも、凡そ、98パーセンタイル値くらいからがギフテッドと見なされますので、100人中2人くらいは、ギフテッドの範疇に入るという計算になります。
少なくとも、各学校の一学年に3-4人はギフテッドが存在するんじゃないでしょうか。
ギフテッドにもレベルがありますし、ギフテッドならではの特徴もあるため、検査結果だけに始終するのではなく、様々に総合して見極められる必要がありますが。
つまり、ここで言いたいのは、ギフテッドと天才は同義語ではない、ということ。
純粋に「天から授かった能力」という意味でならば、確かにYESですが、それは少なくとも、世間一般が考える天才(ジーニアス)や神童(プロデジー)の定義とは異なります。
あくまで、ギフテッドとは、「God-given gift」、「God-given talent」の一種であると、わたし自身は結論付けています。
実はですね、最初に「ギフテッド」を映画館で見たときに感じてしまった、何とも言えない違和感、消化不良感が果たして正しいものだったのかどうかを確認したくて、先日、DVDをオーダーしてみたんですよ。
映画館で一回鑑賞するだけでは、見過ごしてしまったところ、聞き流してしまったところがあるんじゃないか、って。

DVDでもう一度
その結果については、言いにくいんですけどね、やっぱり、 の評価のままだったな。
理由はいくつもありまして、整理してみると、こんな感じでまとめられるんじゃないか、と思います。
作品としては、表面上、こじんまりとまとまっていて、ハートウォーミングだと形容するのにぴったりだったと思います。
きらりと光って存在感を示してくれた、美しいシーンもいくつかありました。
が、如何せん、肝心なストーリーとストーリーの運びに説得力を欠いています。その正体が何かと言えば、
- 一つの物語に、ただでさえ大きな題材をいくつも盛り込んでいる
- 情報が古い
- 登場人物の背景や深層心理を掘り下げるのに掛ける時間と労力を惜しんで、ステレオタイプ的に片を付けてしまっている
- ストーリーの鍵となる最重要人物に何の肉付けもされなかったため、そこから派生するもの全てにリアリティと迫力を欠いている
これらの要因が重なり合って、ストーリーの空洞化を招くこととなったのではないか、と思います。
結果、目に見えるところでは、テンプレ化されたメロドラマチックな展開が繰り広げられている、という印象を残すことになりました。
また、それのみに留まらず、過去の名作、「グッドウィル・ハンティング(数学の天才、MIT)」、「クレイマー、クレイマー(元夫婦による親権争い)」との厳しい比較に晒されることにもなってしまったと言えます。
*「グッドウィル・ハンティング」は、Rレーティングとされているため、アメリカ国内では、17歳未満の視聴には向かないということになっています。
映画「ギフテッド」の良かった点①
何と言っても、この作品の一番の強みは主演の二人、クリス・エヴァンスとマッケナ・グレースでしょう。
二人の間に流れる、何とも心地良い空気感というものが観ている側にも伝わってきます。
気張ることなく、すっと役に入り込むようにして、叔父と姪の関係を演じられている。これは、二人の俳優としての能力に加え、両者の相性が良い証拠でしょうね。
この相性の良さというのは、特にヒューマンドラマというジャンルにおいては、非常に重要な要素だと言えます。
そこには、他のジャンルでありがちな派手なアクションも、壮麗な背景も、華やかなコスチュームもなく、そうした目に見える一切の飾りを取り払った上で、目に見えない感情と感情、心理と心理の交錯に焦点を合わせて、丁寧に描いていくことを常とするためです。
この二人の場合、早速、オープニングシーンから、今の今までごく普通に続いてきたであろう、日常の一コマというものを自然な形で垣間見せてくれました。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
その相乗効果もあって、観客は、直ちに主役の二人に対しての感情的な結び付きを許すことになるわけです。
「共感」、「自己投影」とも呼べますが、もっと端的な表現をするならば、二人の「味方になる」ということです。
それこそが、最初から最後まで、二人の関係が「親子(のようなもの)」として続いていくことを願わずにはいられなくなる理由でしょう。
演出として、過去の呪縛に人知れず苛まれているフランクは、始終、抑え気味に。
対するメアリーは、実に天真爛漫とも呼べる、生き生きとした感情を前面に押し出すことで、ギフテッドチャイルドという、どこか掴みどころのないキャラクターに新鮮な息吹を吹き込んでくれています。
映画「ギフテッド」の良かった点②
絵画的な美しさを語るとすれば、わたしは、断然、このシーンを挙げますね。
ストーリー中盤、茜色に染まった太陽を背景に、ぼうっと浮き上がるフランクとメアリーのシルエット。圧倒的な神々しさを伴って、息を呑むほどに美しい一連の光景です。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
それもそのはずで、このとき、二人は神の存在や信仰についてのスピリチュアルな会話を交わしているんですね。
その間も、よく見れば、フランクの腕を取っては、よじ登ろうとしたり、落ち着き無くモゾモゾと動き回るメアリーの姿が垣間見えて、これには、ああ、ギフテッドチャイルドらしいな、と笑ってしまいました。
映画「ギフテッド」の良かった点③
生命への賛歌というのは、何度聞いても良いものだと思います。
人の命の尊さ、そして、その生命を迎え入れる側の喜び。
文学であれ、芸術であれ、この普遍的価値については、何度繰り返し強調しても、強調し過ぎるということはないでしょう。
今回の作品で言うならば、終盤に組み込まれた、病院の待合室の一連のシーンを指します。
じりじりと何時間も待ち侘びた末に、ようやく子供の誕生を見ることになった、とある家族。そして、その瞬間をフランクやロバータと共に、図らずも待ち続けることになっていたメアリー、という構図が提示されます。
見知らぬ家族が心から歓喜する姿を目の当たりにして心動かされ、加えて、自分が生まれたときも同様だったこと、自分の誕生を誇らしげに告げてくれたのはフランク自身であったことを知らされたとき、メアリーの中で何かが弾けてくれたのでしょう。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
スクリーンいっぱいに映し出される、生まれたばかりの命を見知らぬ家族と共に心から喜び祝うメアリーの姿。
「泣ける」というのならば、わたしにとっては、ここがまさにその感情の発露とも言うべき場面でした。
メアリーとしても、湧き上がる感情に押し出されての偶発的な行動だったのでしょう。その湧き上がる感情がいったい何だったのか、というものに想いを馳せたとき、わたし自身、心揺さぶられましたね。
やはり、子を持つ親ですから。
どうしたって、我が子が誕生したときのことを、まざまざと思い起こさせられてしまうわけです。
そして、その思い起こすという行為は、少なくともわたしにとっては、ギフテッドの娘と向かい合う生活の中で非常に大きな意味を持ってくれているように思います。
一筋縄では行かない娘に疲労困憊させられるなんてことは、実によくあることで、そんなときには、わたし自身が怒ったり、泣いたり、悩んだり、落ち込んだり。
一時の感情に流され、自分自身を失ってしまっている、と表現できるかもしれません。
一旦、そうなると、益々、後ろ向きの感情に引きずられていくわけで、気付いたときには、とことん沖まで流されて、孤独感の真っ只中にいることにもなって....。
でも、はたと我に返ったとき、もと来た道を引き返すためにすることが、過去を辿るということなんです。
それは、娘の誕生時から今までの写真を眺めたり、動画を見ながら、こんなこともあったな、あんなこともあったな、と当時の娘の表情や言葉を思い出したり。
娘の誕生以来、娘と共に体験した「ドラマチックなこと」。
同時に、「何気ないひととき」も。
娘のぽわぽわとしている頭をなでたり、たどたどしい発音の日本語に耳を傾けたり、一緒に工作をしてみたり.....。
そんな風に記憶をなぞってみると、不思議なことに、母としての原点に戻れる気がします。
今まで鳴りを潜めていた、娘に対する愛おしさの感情みたいなものが、じわーっと溢れてきてくれたりもして。
それを、この病院シーンで思い起こさせてもらいました。
正直、フランクが取った行動は、「メアリーの生物学上の父親が突如、表舞台に登場したことで、自らの存在価値の受け止められ方に揺らぎを覚えることにもなった姪のため」という前提はあるにしても、少々、突飛に感じられるものでした。
ただ、そうであっても、そこから謎めいて始まる一連の描写は、最初のぎこちなさを軽々と凌駕してくれるほどに、見応えのあるものだったと思います。
映画「ギフテッド」の問題点①
ここまで書くと、ファミリーイベントとして、家族揃って「ギフテッド」を見に行けるんじゃないか、と思われてしまうかもしれませんね。
何と言っても、ヒロインが7歳ですからね。
でも、要注意です。
それこそが、アメリカで「PG-13」のレーティングを受けている理由。
バーでほろ酔い加減になったフランクとボニーの会話には、男女の駆け引きも含まれているのと、その後、雪崩れ込むように、二人でハリウッド映画のお決まりコースを踏襲しています。
生々しさは、極力省かれていますし、コメディーチックに演出しているとは言え、不快に感じる人には、やっぱり不快でしょう。かく言うわたしも、その内の一人。
二人は知り合って間もない上、生徒の保護者と担任教師という関係なわけで、あまりにもルーズ過ぎやしませんか、と。
フランクが内側に鬱屈した感情を抱いていること、二人は互いに独身であること、加えて、アルコールとその場のムードに流されてしまったことを考慮してみても、親目線、保護者目線でこの映画を観る人も多いわけですから、「こういう先生には、うちの子の担任はやってほしくないなあ」っていう感情を持たれても文句は言えないんじゃないかな。
後に、ボニーがメアリーの担任教師という自身の立場を省みて、一応の後悔の様相を見せているところが一つの救いではありますけどね、いくらアメリカの話だとは言え、もう少し抑制を効かせてほしかったな、と。
二人の気持ちが何となく通じ合ってくれた、くらいならば問題ないんですけどね。良い雰囲気になってくれて、キスを交わそうとするくらいで、ストーリーとしては十分事足りたと思います。
その場合、若干、シナリオに調整を加える必要はありますけど。
この後のシーンで、フランクとメアリーの関係が更に変化を遂げていく大切な場面でもあったため、そこまでのルーズな設定が個人的には引っ掛からずにはいられなかった、というのが正直なところです。
もちろん、わたしと違って、「あはは」と笑ってやり過ごせられる人も、「ああ、あれね、全く大したことないから大丈夫よ」とあしらえる人もいるでしょう。
感じ方は人それぞれですが、特に小学生のお子さんがいる家庭で、家族揃っての映画鑑賞イベントを計画している場合には、はっきりと申し上げて、予定変更をなさった方がよろしいかと。

「PG-13」では、保護者への警告として、13歳未満には不適切な内容を含んでいるかもしれませんよ、と伝えてくれています。「gifted/ギフテッド」の場合は、上記の性的要素以外では、一部、汚い言葉も含まれています。
映画「gifted/ギフテッド」の問題点②
登場人物の役回りや性格に、ステレオタイプ化された理由付けが多いことも気になりましたね。
例えば、フランクの母で、メアリーの母方祖母、イブリンのことなんですけどね。
見ている側からすれば、フランクが母親をファーストネームで呼んでいたり、二人がすれ違う様相から、「この人、本当にフランクの実母なんだよね?」と何度も確認しなくてはならなかったくらいです。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
イブリン演じるリンゼイ・ダンカンの品ある演技に助けられたのもありますけど、ともすると冷淡に見える性格や、そこから派生する、今は亡き娘、ダイアンとの関わり合いを総じて、「イギリス人だから」で片付けてしてしまっているところがね、ちょっと待ってよ!と感じてしまいましたね。
この作品をイギリス人が見たら、怒るんじゃ?
うちの娘にも、偶然、イギリス人の祖父がいますから、「何なの、このステレオタイプな設定は!」と、見ていてあんまりいい気はしなかったですね。
確かに、どこの国にも国民性と呼ぶべきものはありますけど、元々の映画ストーリー設定そのものが、世間一般のものとはかけ離れているわけですから、せめてフランクとイブリンの親子関係がしっくりと物語に馴染むくらいにまで、イブリンというキャラクターを膨らませるべきだったんじゃないか、と思います。
それが十分に出来ていないからこその、ステレオタイプ的という印象なのかもしれません。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
「厳格で薄情なイギリス人女性が、数学の天才だった娘、ダイアンのステージママになった挙句、自分の思い通りの道を進まなかったらって、娘を見捨てて、追い込んで。今度は娘が遺した孫娘が数学の天才らしいと分かったとたんに会いに来て、親権主張? 何てイヤなやつ!」
そう切って捨てられたら、すっきり出来たかもしれませんけれどね。
でも、日々、ギフテッドの娘と関わり、ギフテッドの事情について学んでいる身としては、そういう単純過ぎる見方だけは絶対にしたくなかったんですね。
変な話、イブリンに同情してしまった、と言いますか.....。
わたしにとっては、彼女こそが一番興味深い人物になってくれる可能性を秘めていました。
おそらく、制作側もイブリンをただの「敵対者」にするつもりは無かったと思うんですよ。
イブリンとダイアンが笑顔で一緒に映っている写真アルバムを、メアリーがめくっているシーンがありましたね。「ママといつも一緒にいたのね」のコメントに、「そう、いつだって二人一緒だった」とイブリンが答えています。
きゅうっと胸が痛みましたよね、それ見て、それ聞いて。イブリンの脆く傷ついた心が透けて見えるようで。
ここからは、わたしのギフテッド見地を絡めての、極めて個人的な見解になります。
イブリン自身がギフテッドですよね。それも、かなりレベルの高い、Exceptionally Gifted~Profoundly Giftedの域。
天才のダイアンを産み育て、学術界において、そのダイアンの究極の論文のディフェンスをも行えるはずの人ですから、そこの繋がりは必然です。
同じギフテッドでも、IQ値が30も違えば、会話が成り立たないと言われています。夫婦ですら、互いのジョークを解するのに、IQ値は平均で12ポイント差内だと。(by Dr.ルフ)
つまり、ギフテッドの中でも、穏やかなレベルのModerately Giftedと、一番高いレベルのProfoundly Giftedでは、当然、話が噛み合わないということにもなります。
フランクのギフテッドレベルについては確証はありませんが、少なくとも、彼の興味と関心は哲学にあったわけで、数学の世界で生きてきた母と反りが合わなかったとしても、そこはイギリス人云々と説明するよりは、十分に納得できようかと。
加えて、イブリンがレベルの高いギフテッドであると仮定するならば、マイノリティー中のマイノリティーになるわけで、彼女自身が子供時代から孤独感を抱えていたことは容易に想像できます。
数学という学問の世界の中だけで、唯一の生き甲斐というものを見出していたのかもしれません。結婚により、自国と数学からは一旦は去ることで、再び、孤独感を募らせ.....。
そんなときに、自分と同じ分野で、自分以上に優れた能力を持った娘が生まれた。成長するにつれて、自分と同様、数学の才能をいっきに開花させていく。
その娘とは、とにかく話が合う。ただの興味関心に留まらず、情熱と探究心を共有できる。何と言っても、相手は、自分の娘であり、血縁。自分自身の心を全て開いてしまうことに、何の躊躇が必要だろう?
もしかしたら、生まれて初めて、イブリンは自分の心を自分以外の人間(娘)に開くことができたのではないですか? ようやく、自分と同じような人間に出会えた、と。
裁判中に明らかにされる、過去にイブリンが見せたエキセントリックな対応も、通常だったら、「えええええっ???!」と耳を疑うようなことばかりですね。
でも、これら全てが、親として、また、同類としてのダイアンへの愛情ゆえのものだったとしたら? 加えて、ギフテッドにありがちな孤独感、完璧主義やOE/過度激動といったものが全て悪い方向に出てしまってのことだったとしたら?
可哀想に.....。
そう思ってしまったんですよ。
いえ、もちろん、イブリンの行動を肯定しているわけではないですよ?
でも、完全否定しているわけでもない....かな....。
正直、イブリンのご近所さんになることだけは、全力で避けたいですよ?
一個人を社会的に抹殺してしまうような、過激な行動は絶対にしてはいけない、とも思います。そこは、わたしとしても、強調しておきたい点です。
ですが、ギフテッドの親の立場として冷静に分析してみると、一転、イブリンの心情が理解できる部分もあるんですよ。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
もしも、我が子がイブリンの言うところの「10億に1人」レベルの天才であったとしたら、誰しもが、まずは、自分に課せられた責任の大きさに恐れおののいてしまうんじゃないでしょうか。
「この子を産んだのは、確かにわたしだけれど、正直、どう育てていくべきなのか分からない。自分がどう娘に関わって、どう接し、何を成せばいいのか、お願いだから、誰か教えて!」
わたしだったら、身動きが取れなくなってしまうかもしれません。
そして、例え、最終的には、「神さまから、この子を授かったということは、わたしには、この子を育てるに足るだけのものが備わっているってことよね? じゃなかったら、初めから、この子を授かったりしないよね? 気張らずに育てればいいんだよね?」という楽観的な結論に辿り着くことが出来たとしても、です。
わたしなんて、今ですら、娘に対しては、「聞いていたのと話が違う!」と途方に暮れることだってあります。
最初から無理だと分かってはいても、「娘の取扱説明書が欲しい。誰か、トラブルシューティングをいっぱい付けて送ってよ!」と願わずにはいられない人間です。
事実、ギフテッド研究で有名な心理学者が、子供が高レベルのギフテッドだと判明したときに親側が見せる反応について、こう記述しているんですね。
母親側は泣き出してしまうことが多く、父親側は、その検査結果が果たして確実なものかと疑ってかかります。共通しているのは、どの親も我が子に対して、とてつもなく大きな責任感を抱いているということです。
中には、ギフテッドの子供のニーズに応えてあげることができないのではないか、と自らを力量不足だと感じてしまう親もいます。
親の経済状況に限りがあることが、大抵は重く圧し掛かってくるのです。
《シルバーマン&ケアニー、1989、日本語訳 by 更紗》
フランクが「一番恐れていることは、自分がメアリーの人生を台無しにしてしまうこと」だと告白するシーンがありましたね。
それと同様に、イブリンも重圧に似た、多大なる責任というものを肌で感じていたのでしょう。だからこそ、「こうあるべき」という、己の思考にがんじがらめになってしまったのかもしれません。
理想だけが空回りしてしまって。
即ち、我が子と関わっていく上でのバランスと優先順位を誤った結果だったのかもしれないな、と。
もしも、イブリンの行き過ぎた行動から何かを学び取らなければならないのだとしたら、親として、「子供を守ること」と「子供をコントロールすること」は別物であること、また、「子供を導くこと」と「子供に強制すること」を履き違えてはいけない、ということでしょうか。
我が子が、将来、より良い選択をすることができるよう、過保護一辺倒で社会を完全に遮断してしまうのではなく、幼いときから、些細なことでもいいから、少しずつでも選択の練習をさせてあげるということ。
そして、将来、例え、その自由意志で愚かな選択をすることがあろうとも、時には、敢えて失敗を体験させてあげること。
と同時に、その失敗をも一緒に受け入れ、我が子が一人の人間として成長していく姿を見守ってあげるということも必要になってくるのでしょう。
子供を一人育てるということは、自らがもがき、模索し、試行錯誤を重ねることでもあり、自分自身もそれらを通して、親としての成長を遂げさせてもらえる、ということなのかもしれません。
映画「gifted/ギフテッド」の問題点③
そもそもですね、映画を見ていて、「え?」や「あれ?」と引っ掛かったシーンがいくつかありました。
言うならば、ギフテッド云々よりも、もっと基本的なこと。そう、現代の社会事情に少々疎いんじゃ?と思われるシーンのことなんです。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
そこに無いはずのものがある、もしくは、そこにあるはずのものが無い、と言えるかな。
手っ取り早く極端な例えを使ってみると、日本の江戸時代に携帯電話は存在しませんし、その江戸時代には当たり前だった帯刀して歩くお侍の姿は、現代日本には見当たりませんよね?
そう、まさにその通りなんですよ。映画「ギフテッド」を見ていると、途中で、突然、タイムスリップさせられてしまう感覚に陥ってしまうことが何度かあるんです。
ところどころに、場違いなレトロ感が漂っていると言いますか。
まあ、これもね、微笑ましいレトロ感や単なるタイムスリップだけで済めばいいんですけどね、見ている側の集中力を途切れさせた上、そのことで作品の感情世界にどっぷりと浸かることを阻んでしまうとなったら、大きな問題だと思いますね。
フィクションというのは、元々が、「作り話」ですから、その作り話をあくまで「現実の世界」、もしくは、「どこかに存在しているかもしれないお話」として提示するためには、極力、そういった綻びを予め無くしておく必要があるんですよ。
確かに、一つ一つは些細なことかもしれません。
でも、そんなの、たかだか魚の小骨みたいなものじゃないかと高を括っていると、案外、その魚の小骨が喉に引っ掛かってしまって、果ては、ゲストにメインディッシュやデザートを残させるはめになるんじゃないか、と思います。
わたしが作品の中で気になった小骨3本は、これ。
校長は、フランクとの2度目の面談終了後、メアリーについて詳しく調べることをしますね。その最中に、何らかの形で祖母、イブリンにコンタクトを取り、数学的才能についても伝えたらしいことを示唆していたシーンがありました。
おかげで、ある日、突然に颯爽と姿を現すイブリン、という流れに。
率直に言って、この校長の行為って、法的に問われることはないんでしょうか?
個人のプライバシー保護が声高に叫ばれる、このご時勢に、保護者当人の同意なく、校長自らが勝手に第三者にコンタクトを取って、生徒の情報を漏らすとか、考えられないんですけど。
それをやってしまったら、それこそ、訴えられそうですけどね。何かと裁判沙汰にしたがるアメリカ人のことですし。
結局、それをきっかけに、イブリンがメアリーの親権を主張して裁判を起こすことになるわけで、校長の責任問題に繋がってもおかしくないと思える設定だと思いますね。
フランクがイブリンに対し、「あんたがメアリーのために用意してやれる環境って何だ?大勢のロシア人エリートに混じって、数式を解かせるってことか!(大意)」と、詰め寄っているシーンがあるんですけどね。
さすがに、この場面でロシア人だけなのは、いかがなものか、と。
いえ、有名な数学者を多数輩出しているという意味で、ロシア人を出してくれてもいいんですけど、今でしたら、中国人とか、シンガポール人とかを含めてくれた方が、何となくリアリティーがあるような気がしてしまったんですね。
アメリカの算数教育では、シンガポールのものはじめ、アジア系の算数テキストが高く評価されていますし、また、公立の小学校でも、外国語教育として、中国語を主要選択肢の一つにしているところが多かったり、と。
フランクが吐き出すように使った「ものの例え」は、決して良い意味ではないわけで、そこで語られる「ロシア人」という言葉に、何となくですけど、米ソ(旧ソ連)の冷戦時代を思い起こさせる政治的な臭いを感じずにはいられなかった、という。
裁判中、イブリン側の弁護士からフランクに対しての激しい証人尋問がありましたね。その中で、フリーランスでボート修理業を営んでいるフランクの医療保険の有る無しを問題にしているシーンがあります。
話の流れから、フランクも、メアリーも医療保険に加入できていない、という設定のようです。
が、ちょっと待った!
オバマケアはどうなってます?
仮にフランクの単独収入で主要な保険会社の商品を購入出来なかったとしてもですよ? 申請さえすれば、その所得額に従って、州からの援助が受けられたりするはずなんですよ。
念のため、フランクとメアリーが住むフロリダについても、ざっと調べてみたところ、そういったシステムが機能しているように見受けられましたけどね。
基本、どの州であっても、子供に対してのケアは、特に手厚いものだと思われます。そこは、フロリダでも同様なのではないですか?
こうした違和感から導き出される答えは、情報の全部が全部、この2017年に合わせてアップデートされているわけではない、ということなんです。
校長先生が殊更に、生徒に関わるプライバシー保護や守秘義務の違反を犯しているだとか、数学のエリート教育で一緒になるのはロシア人しかいないだとか、フランクが州への保険加入申請を怠っただとか。
ただ単に、細かな設定が昔の古いままに物語が進められていってしまっているのでは、と推測できるわけです。
わたしが見ていて、ふと感じてしまったのは、ところどころ、時代が30年くらいズレているような気がする.....というものでした。
それに関連して、わたしから知人に宛てた映画の感想の続きで、こんな風にも記しています。
他にも、色々と感じるものがありました。
わたし自身は、脚本を書いた人間の周りにギフテッドがいるのか、いないのか、どれだけのリサーチをしたのか辺りが気になって。マイナーな視点になりますけど、そのことについて、調べてみようと思っています。
《知人に宛てられたメール by 更紗》
その結果、見えてきたのは、脚本家トム・フリン(当時62歳)の個人的経験をフランク(30歳)の視点に、かなりの分量、投影しているということ。
自らの告白によれば、姉が数学のギフテッドであったこと、その姉や姉の娘であった姪たちの言動にヒントを得、メアリー像を膨らませた、ということのようです。(by トム・フリン)

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
つまりは、遡ること、30年ほど前の経験がストーリーのベースになっている、と。
それは、奇しくも、わたしが感じた、「ところどころ、時代が30年くらいズレているんじゃ?」にピッタリ符合することになります。
30年と言ったら、1世代を意味します。それだけの時間が流れていれば、アメリカの社会事情も大きく変化し、ギフテッドの研究ももう少し進んでいることでしょう。
最近では、コンピューターテクノロジーの進歩やインターネット環境の整備もあり、僅か1-2年の間にも、わたしたちの生活に大きな変化を及ぼすことを考えると、もう少し、その辺の辻褄を合わせてきても良かったんじゃないでしょうか。
ただでさえ、キャスティングには、「Politically Correct/政治的に正しい」観点から、神経を尖らせるほどに気を遣っているのが伺えるわけですから。
だってね、ざっと見たって、こんな感じですよ?
《主要キャラクター》
- フランク:アングロサクソン系白人
- メアリー:アングロサクソン系白人、ブロンド
- ダイアン:アングロサクソン系白人、ブロンド
《主人公とヒロインの味方側。(基本)良いインパクトを与える》
- ロバータ:アフリカ系
- ボニー:中東系/ユダヤ系(役では、ヒスパニック系にも見える)
- メアリーの同級生の男の子:白人系
- フランクの弁護士:アフリカ系
- ボニーの同僚:アフリカ系
- MITの助手:アジア系
- 病院シーンで新生児の誕生を祝う最初の家族:アフリカ系
- 病院シーンで新生児の誕生を祝う2番目の家族:白人系
***白人の主人公とヒロインを支えるキャラクターは、ほぼ、非白人系のみ。
《主人公と敵対する側、一癖ある人物、主人公の道に立ちはだかる人物も含む》
- イブリン:イギリス人、アングロサクソン系白人、ストロベリーブロンド
- 裁判官:白人系
- イブリンの弁護士:白人系
- メアリーの小学校校長:白人系(ブロンド)
- メアリーの実父:白人系、ストロベリーブロンド/赤毛
- メアリーの里親夫婦:白人系(妻はブロンド)
- MIT教授:白人系
- メアリーの同級生に意地悪をした上級生&母親:白人系(ブロンド)
- 猫のフレッドを捕獲している保健所スタッフ:白人系
***フランクの行く手を阻むことになる人物は、見事に白人ばかり。非白人で「嫌われ要素」を担うキャストは皆無です。
これは、どう考えても、偶然の産物ではないですね。
明らかに、作品が「Politically Correct」であることを目指して、制作者側が細心の注意を払ってのこと。強く意識しながら、キャスティングにおける人種間の公平を図った結果だと思います。
それほどまでにキャスティングに配慮できるならば、土台となるストーリー自体に、もう少し拘って欲しいところでした。
映画「gifted/ギフテッド」の最大の問題点
そして、わたしの中では、おそらく、これこそが最大の問題点と言えるんじゃないかな、と。
それは、ダイアン・アドラーという人物。
フランクの姉で、メアリーの母。そして、イブリンの娘でもあり、言うまでもなく、この作品の一番のキーパーソンです。
即ち、主要人物3人と直接の血縁関係を持ち、数学の天才でもあり、尚且つ、その死によって、フランクとメアリーを一つの家族ユニットとして結びつけることにもなる人物。
別の言い方をするならば、この作品の中では、ダイアンという人物を中心に据え、彼女をぐるりと取り囲むようにして設定が練られ、全ての物語が動いていくわけです。
本来ならば、観客は、この人物に何らかの感情を波立たさせられてもいいはず。
なのに、なぜにそうならないのか。
なぜに、ダイアンとは、こんなにもドライで、こんなにも平坦なキャラクターのままで終わってしまったのか......。
それは、彼女に奥行きを持たせること、色付けをすることに失敗したからでしょう。深みが感じられない、その一言に尽きます。
ただでさえ、天才の生態とは、一般の人間の範疇を超えます。そういう非凡なキャラクターを物語の中心に据えるのならば、せめて、彼らの思考や心理、生き様を一般の人間が理解してみたいと思わせるに足る材料が欲しかった!
それが、例え、完全なる理解には程遠いものだったとしても、です。
結局は、見る側が彼女に対して、感情の結びつきを持てないままに終わってしまったんですね。
その理由は簡単。
ダイアンが何もしゃべらず、動かないから。
彼女については、最初から最後まで間接的でしか紹介されていないんですよ。
顔なんて、グーグルの検索エンジンで出てきた写真と、イブリンのアルバム写真の中だけ。完全なる静止画像なんです。
彼女の言動だって、これまた、全て、フランクやイブリンが会話の中で語るか、裁判の証人喚問でイブリンが質問に答えるかの、間接的なものに限られてしまっていましたよね。
見ている側にとっては、彼女がかつて血の通った、生きた人間であったということを、感覚として掴めるまでには至らないんです。ある意味、マネキンを見ているような気にさせられるんですね。
制作側としては、おそらく、そういう手法を取ることで、ダイアンをどこかミステリアスな存在として浮かび上がらせたかったんだろうな、とは思います。
だから、敢えて、物言わせなかった。多分ですけど。
過去の呪縛の象徴として、そこにただ存在することで、そこはかなとない恐怖感を煽るというのか.....。
でも、まあ、当然のこと、無理がありましたよね。
だってね、物語がどう転ぼうと、どこに行き着こうと、ダイアンっていうキャラクターは、最後の最後まで一番のカギとなる人なわけですよ。
血縁や家族の見地からも、天才的能力や、数学の謎を解くという夢や目標の見地からも。
ダイアンは、この全てに繋がっているんです。いや、ダイアンという存在がこれら全てを繋げていると言った方が正しいかな。
ダイアン、あなたは何処に?
それほどまでに重要なキャラクターをですね、単なる静止画像だけに留めておいてはダメだと思いますね。
彼女にしゃべらせないと、でもって、動いてもらわないと。
端役が平面的なのは問題ないんですよ。例えば、小学校の校長だとか、ボニーの同僚だとかですね。
でも、ダイアンは、物語のど真ん中に据えられた、鍵となる人物ですからね、物言わず、瞬き一つせず、ただ中央に鎮座させられているだけじゃ、どうにも困っちゃうんですね。
じゃあ、どうすればいいのか。
そうです、確かに亡くなっています。
でもね、文学作品には、別の登場人物によるフラッシュバックや夢といったデバイスを効果的に使う手法があるんですよ。
そりゃ、ある意味、ありふれた手法ですし、やり過ぎたら、チープになってしまいますけどね、殊、この作品に置いては、必要不可欠だったんじゃないか、と感じます。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
これは、わたしの自己満足的な提案になりますけど、例えばですね、オープニングをフランクの夢や記憶のフラッシュバックから始めるとかだったら、良かったんじゃないかな、と。
その記憶の中で、ダイアン自らが電話をしてきて、彼女の切羽詰った声の、「フランク、大切な話があるの。今から会えない?」を聞くことになれば、観客としてもダイアンとフランクの感情を同時に体験できますよね。
その後、現実のフランクが自分の部屋に保管しているダイアンの遺品を痛ましげに見つめているとか....。
これならば、物語の伏線を張れることにもなりますし、打って変わって始まるメアリーの初登場シーンとの比較にもなってくれて、観客の側にゾワゾワっとした「何か大変なことが始まるのかもしれない」という静かな恐怖感を植えつけることも出来るんじゃないでしょうか。
または、心の準備を促すと表現できるかもしれませんね。
その後は、タイミングを見計らいながら、フランクのフラッシュバックを数回重ねることで、ダイアンというキャラクターにもう少し血を通わせることは可能だったんじゃないかな。
でもって、イブリンが熱心にダイアンに数学を教えている姿、それを遠目から淋しげに眺めている少年フランクなんかを登場させてあげられていたらね、またストーリーに厚みが出たんでしょうけどねえ。
もしかして、泣きのパターンがあった?!
まあ、言ってみれば、そうした伏線を張ることが出来ていないからこその唐突感であり、薄っぺら感であり、ご都合主義的な印象であり....。
ただでさえ、孤児だ、ギフテッドだ、天才だ、親子間の葛藤だ、親権だ、裁判だ、里親だ何だと、大きなテーマを盛りだくさんにしているわけで、緻密な計算のもとにストーリー展開していかなきゃならないところを、一番の鍵を握る人物がそんな風に無味乾燥的だとね、ストーリーの流れが単に、無理やり型にはめられてしまったかのメロドラマにしか見えなくなってしまうんですよ。
ほとんどの枝葉が取り払われてしまって、筋書きだけがバーンと冬の裸木のように露わになっている状態と言いますか。
物語終盤、クライマックスとも言える場面。裁判で親権を失ったがために、フランクとメアリーが引き離され、紆余曲折の後、再会を遂げ、二人が絆を深めるというもの。
おそらくは、作品の中での、一番の泣きのシーンですけどね。
まあ、親であれば、その理由が何であれ、自分が我が子と離れ離れにならなきゃいけないこと、子供を赤の他人の手に委ねなければならないことの葛藤や我が子の孤独感なんか、もう手に取るように想像がつきますよね。
でもって、ギフテッドのように手の掛かる大変な子を、敢えて里子に出すなんてことを考えたらねえ、それだけで、涙ポロポロですよ。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
だからこそ、制作側としては、その涙のツボと言うべきものを何とか押さえておくことに躍起になっていたはず。
でもね、これは、大人を泣かせるための典型的な雛形手段ですから。
よく似た手法が過去の映画作品や文学作品にも使われていますよ。
例えば、身内(元夫婦)で親権を争うということ、父親が最終的には子供を取り戻すというシナリオで、ダスティン・ホフマン、メリル・ストリープ主演の「クレイマー・クレイマー」(←絶対に一見の価値あり!)。
ギフテッドを取り扱った作品で、映画「ギフテッド」と何かと比較されがちな、ジョディー・フォスター主演の「リトルマン・テイト」(←個人的には、☆☆★★★)。こちらも、7歳の主人公の男の子が、母親としばらくの間、引き離されることになります。
児童文学の名作で言うと、フランシス・ホジソン・バーネット(バーネット夫人とも言う)の「小公子」と「小公女」なんて、まさにそれ。
「小公子」では、ニューヨーク生まれのセドリック(7、8歳)が、愛情深いアメリカ人の母親の元から引き離され、偏見に満ちたイギリス人伯爵の祖父のお城で一緒に生活することになります。
「小公女」では、セーラが父親と離れ、寄宿舎学校で生活していますが、父親の死を機に、学校長の冷たい仕打ちを受けながらも、自身を失わず、凛として耐え抜く物語でもあります。
どちらも、最後には、主人公が慕う親/親代わりとの再会や邂逅があり、主人公にとっての安心できる家庭環境が再び確保されるというハッピーエンディングで幕を閉じます。
セドリックの場合には、祖父と母の和解があって、母がお城に一緒に住めるようにもなりますし、セーラの方は父親の親友である男性に引き取られることで、父親(の役割を負った人物)からの愛情を再び取り戻すことが叶うわけです。
いずれの作品も、愛情深い親/親代わりとの生活→別離→回復のパターンを踏んでいますね。
別離から回復までの期間は、主人公にとっては一番の試練の時でもあり、敵対者の存在が大きくクローズアップされ、主人公の真価がこれでもかと試されることにもなります。
観客にしろ、読者にしろ、それまでにはすっかりヒーロー、ヒロインの心にぴったりと寄り添っていますので、「試練は一時。お願いだから、何とか耐え抜いて!」と祈るような気持ちにすらさせられます。
でもね、映画「ギフテッド」の場合、正直、そんな風に感じられましたっけ? 見ていて、話の流れに無理やり感を覚えずにはいられなかったような....?
何せ、見せ場の一つである裁判シーンが駆け足で進んでいきますし、あれよあれよと言う間に、話の流れがかくんと直角に曲がってしまった感が否めないんですけどね...。
なぜに、フランクとイブリンの和解案が、何の血縁関係もない、赤の他人の里親にメアリーを委ねるってことになるの?って思った人は、決して、わたしだけではないはず。
だってね、普通では、まず考えられないですもの。
第一に、フランクはメアリーとは近親ですよね。叔父と姪ですから。しかも、過去6年、曲がりなりにも男手一人で養育してきたわけですよ。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures
その状況で、メアリーを一時的にとは言え、赤の他人の元に送り出なさきゃならない、なーんて、あり得ないと思うんですよね。
フランクが麻薬中毒とか、アルコール中毒とかだったら話は別ですけど、週末にバーでお酒を飲むくらいでしょ?
姪を虐待してるとか、ネグレクトしてるとか、何人もの女性を次から次へと家に連れ込むとか、児童相談所に通報が行くような問題を抱えているわけでも、自堕落な生活をしているわけでもないんですよね?
となったら、えええっっ??!!と純粋に首を捻るしか無いんですよ。
でね、これも突き詰めていけば、やっぱり、最初のダイアンに行き着いてしまうんじゃないですかね?
ダイアンを巡る家族間での過去の軋轢がはっきりと見えてこないからこその、「何でそうなる?!」だと思うんですよ。
大切なのは、「物語の核の空洞化を防ぐこと」、「物語が上滑りにならないようにすること」。
となれば、基礎工事をしっかりやっておくしかないんじゃないですかね? 土を深く掘って、セメント流し込むなり、鉄杭を打つなり何なりして。
繰り返しになりますけど、この平面キャラ、もっと膨らませましょうよ、立体感付けて、ってことなんです。
せめて、ダイアンにゆらゆらと揺らめく亡霊くらいの存在感は出してあげましょう。さり気なく、ぼうっと浮き上がらせてあげるだけでも、即効性があるんじゃないかな。
今のままですとね、残念ながら、その存在自体が干からびてしまっていますから。せめて、砂漠に姿を現す蜃気楼くらいまでには、ダイアンの存在感を増してあげたいものですよね。
こんな解決法もありかも?
その上で、おこがましいとは知りつつも、仮にわたしがこの作品の改善を任せられたとするならば、この際、思い切って、フランクの設定を変えてしまうと思いますね。
可能性としては、以下の4つ。
① フランクをダイアンの異母弟にする。
② フランクをダイアンの父方従弟にする。
③ フランクをダイアンの別れた元恋人にする。(但し、メアリーとの血の繋がりは無し)
④ フランクをダイアンの幼馴染にする。
要は、フランクとダイアンの血縁を現在の設定よりも薄くさせる、もしくは、無くしてしまう、ということです。
と同時に、イブリンとの血の繋がりを皆無にしてしまいます。
ダイアンは、イブリンにとっての、唯一、血の繋がった娘としておく方が、イブリンの過剰なコントロール具合を見ても辻褄が合うような気がしますね。
こうすれば、ストーリーに一番重要な要因である、フランクのイブリンとの距離を保った関係性も、親権裁判も、和解案も、ギフテッドとしての遺伝すら、もう少し腑に落ちてくれると思うんですよね。
親権裁判そのものでは、①の異母姉弟の設定だけでしかフランク側が主張できないかもしれないですけど、例えば、③の別れた恋人の設定で周りがフランクとメアリーを親子だと勘違いしている場合、告発の趣旨(不適切な関係とか、メアリーの肉親に真実を告げる義務を怠ったとか)を変えて、裁判を引きずれるかもしれません。
これならば、校長が個人のプライバシー保護に反してまでも、イブリンに連絡を取った正当な理由が出来ます。
ただ、病院シーンについてはね、③のシナリオですと少々無理が出てきますので、そうなると、①の異母姉弟のシナリオが一番しっくり来てくれるのかもしれませんね。
もしも、二人が別れてから2-3年の年月が経っているということに出来れば、最後まで、③の別れた恋人設定で行けないことはないと思いますけどね。
そうなれば、尚更、血の繋がりを超えての親子の愛情だとか、家族の繋がりといったものを強調できることにもなります。
④の幼馴染の設定は、一番無難と言いますか、ある意味、淡白になってしまうかもしれませんので、せめて、ダイアンとは腐れ縁であり、その昔、彼女に恋心を持っていた、くらいには膨らませておいた方がいいかな、と。
が、あくまで、旧約聖書のエサウとヤコブよろしく、同父母姉弟ということにするならば、親の偏愛を描くには、話の詳細設定が甘すぎるように感じますね。
いずれのシナリオにしろ、フランクの心情に関わる以下のポイントを抑える、どころか、しっかりと強調しておくことが共通して重要になってくるはず。
それでこそ、物語に説得力が生まれ、フランクの行動にも迫力が加わってくれるわけですから。
*実親からの愛情も関心も希薄で、フランクは心に孤独感と寂しさを感じていた。
*フランクはダイアンに対して、愛情、憧れ、嫉妬、苛立ち、同情、憐れみ等が入り混じった複雑な感情を抱いていた。
*ダイアンから頼られることも多かったが、実質的には振り回されていた。
*ダイアンと関わることに酷く疲れていた。
*ダイアンとは関係のないところで自由になりたかった。
*ダイアンの自死に対して責任と罪悪感を感じている。
*ダイアンの遺児に対しては、父親代わりとしての純粋な愛情を抱いている。
確かに、何事も言うは易しですからね。批評する側は、何かと好き勝手を言えますけど、制作する側には、産みの苦しみというものが付きまとうもの。
まあ、ツッコミどころは数あれど、十分にギフテッドコミュニティーに貢献してくれましたし、日本社会に「ギフテッド」という言葉を馴染ませるきっかけになってくれるのかもしれませんしね、という辺りを考慮してみますと.....。
最後に、ギフテッドの親として伝えたいこと
わたしになりに、色々な視点を絡めて論じてみた、映画「gifted/ギフテッド」。
この作品の日本公開にあたって、ぜひとも伝わってくれればいいな、と願っていることがあります。

出典:Wilson Webb/Fox Searchlight Pictures

が、そこまで突き抜けていなくとも、ギフテッドの存在は、案外、わたしたちの身近にあるものだと思います。
こちらが、ただ気付いていないだけで。
例えば、学校や職場。それに、近所。家庭内にすら。
そうしたギフテッドの存在にもしも気付くことがあったならば、メアリーに向けられたのと同様、温かな眼差しを向けてもらえるといいな、と思います。
彼らは、世が想像するような、完璧な人間でも、理想の人間でもなく。
誰しもがそうであるように、得意・不得意を併せ持ち、悩み、もがくことも多い、未完ながらも愛すべき存在です。
ギフテッドたちは、生まれてから死ぬまでの間、その一生涯を通して付きまとうギフテッドの特性ゆえに、生き辛さというものを常に抱えることにもなります。
そして、親ならば、そんな我が子を哀れに思い、自分が出来る限り支えてあげたい、生き辛さを取り除いてあげたい、と思うことでしょう。
子供の幸せのために、あれやこれやと想いを巡らせ、良かれと思って様々な選択をしながら。
ときには、自分の置かれた状況に流され、その選択を誤ることだってあるかもしれません。
意気揚々と選んだ道が、実はそうじゃなかった、ということだってあり得ます。
でも、フランクのように、そこで一旦立ち止まり、自分が誤ったことを認め、正しい決断を下すことを諦めないならば、より優れた選択肢をこの手に掴むことだって出来るんです。
子供の幸せを真摯に考え続ける限り、軌道の修正はいくらでも効く。
そんな心からのエールが、ギフテッド云々は関係なく、この映画を見る全ての親の立場にある方々に届いてくれるといいな。