基本、明るく、優しく、そして、フレンドリー。何かと面白いことが大好きで、邪の無いイタズラも得意。時にわがままで甘えん坊。

何だか嬉しくて
これ、親から見た、うちの娘の性格なんですけどね。
まあ、メリハリがある性格って言うんですか? ある意味、子供らしいっていうのか、天真爛漫?
一人っ子なため、家庭内で良い意味での比較の対象が無いということもあって、親としても、こう、時に甘やかしすぎたり(←夫がですよ)、厳しくしすぎたり(←主にわたしです)っていうことは、それなりにあるだろうな、とは思うんです。
とは言え、やっぱり、いつも近くにいて、娘のことを誰よりも深く理解しているのは、わたしたち、親だと思っています。
娘のちょっとした感情の揺れだとか、ムードだとか、クセだとか、好みだとか、考え方だとか、そこはもう、あの子が生まれたときから傍にいますからね、どこででも娘の通訳、買って出られます。キリッ。
でも、それと同時に、娘のすぐ近くにいるがために、時に木は見えても、森が見えない状態って言うんですか? そういうことも、「たまー」にあるとは思うんですよね。
客観視というのとはまた違う、鳥瞰図(これ、「ちょうかんず」と読むのですって!)の欠落。
つまりは、高い所から全景を見渡せていないこともある、ってことなんですけどね。
見ているようで、実は見ていなかった、気づいているようで、実は気づいていなかった、知ってるようで、実は知らなかったことも、あるんだろうな、と。
ふとしたときに耳にした、何気ない他人の言葉。
それが、ばーんとわたしの翼の高度を上げてくれて、娘のことをもっと鳥瞰図的に眺められるようになった、そのおかげで、目から鱗がぽろぽろと落ちてくれたよ、というお話です。
他人の目に映った娘の好ましい性格
ふとしたとき。そう、それは、何のことはない、娘が風邪を引いて外出できなかったときのこと。
そのおかげで、娘の性格のことで、また一つ気付かせられたことがあったんです。
それは、親が思う以上にあの子が社交的だったということ。
何でも、夫がよく行くスーパーに立ち寄ったところ、お店の人から、こう尋ねられたそうです。
「今日はお嬢さん、一緒じゃないんですか?」
「風邪を引いてしまったので、家で大人しくしてるんですよ」
夫がそう答えたところ、とっても残念そうな顔をしていたと。
ん?「奥さん、一緒じゃないんですか?」と聞かれていないところ、敢えて突っ込ませてもらってもいいですか....?
いや、それにしても何だ? その、お店の人が残念そうな顔をするって。
夫も同じことを思ったんでしょう。その理由をさり気なく聞いてみると、こんな答えが返ってきたそうです。
「あの子、いつもニコニコしながら、みんなに『Hi!』って挨拶をしてくれるんですよ」

そう言えば、赤ちゃんの頃から、よくニコニコしている子だったかも
え、そうだったの?! し、知らなかった....。
わたしとも一緒に同じスーパーに行っているはずなんですけど、そんなの気付かなかったというか。
あ、でも、そう言われてみれば、ベーカリーセクションではよくお店の人と何やら楽しそうにおしゃべりしていたような....?
「何にしよーかなー、これがいいかな? それとも、あっちの方がいいかな?」
あの子、そんな感じで自然に会話を始めていたかもしれない....?
娘の瞳に映る世界
結局、あれですよ。母親のくせに、こう、気持ちに余裕がなくて、娘のそういうところを見逃してしまっていたということなんでしょう。
その場の状況を楽しむというよりは、どこに行っても目的を達成することばかりに躍起になってしまっていた、と。
人参を買わなきゃと思えば、野菜売り場に神経が行き、チーズを切らしていたなと思えば、乳製品売り場に直行し。
そもそも、スーパーでのお買い物中に、他人と敢えてコミュニケーションを図ろうとか、全く思わなかったです。さすがに精肉売り場で注文したり、レジを通ったりするときには、軽く挨拶はしていましたけどね。
そういう目で、娘をもう一度観察し直してみると、ただのフレンドリーとか、社交的というのではなく、こう、人生を思いっきり楽しんでいる?
非常に好奇心旺盛で、毎日が宝探しみたいな感覚。どこに行っても、ドキドキやワクワクがいっぱい。
あの子の見る世界って、もしや、全てがきらきらと輝いているんじゃ....?

娘の目には、こう映る?
それでもって、もしかしたら、あの子の目には、妖精とか、エルフとか、ユニコーンとかも見えている?

妖精の調べ
いや、まさかとは思いますけどね.....。
親が娘から学ぶべきこと
いやいや、そこで他人事のように語っちゃいけない!
要するにですね、わたし自身、娘から学ぶことがいっぱいあるんではないかと。
英語では、「childlike/チャイルドライク」と「childish/チャイルディッシュ」という2つの似て非なる単語があるんですけど、その中に同じ「チャイルド/子供」を含んでいたとしても、両者、その言葉の与える意味も印象も全く違ってくるんですよね。
前者の「チャイルドライク」は褒め言葉で、子供のような純真さや素直さを強調。
後者の「チャイルディッシュ」の方は、逆に子供じみたとか、幼稚なといった否定的な意味合いで使われています。
よくよく考えてみれば、大人であっても、毎日の生活の中で「チャイルドライク」でいることって可能なはずなんですよね。
んー、例えばですけど、秋ならば、自分で枯葉を踏みしめる音を楽しんだり....?

枯葉を踏みしめる音は、なぜだか、耳に心地いい
カフェで流れるドビュッシーの「月の光」に聞き入ったり?

蒼白い月の光の中をゆうゆうと
仕事帰りに、ふと夜空を見上げて、そのベルベットのような闇の中に見知った星座を探したり?
しばし時間を忘れて、その美しさに圧倒されたりとかね?

宝石のように輝く夜空
そう、要は、些細なことに喜びや幸せを見出す能力って置き換えられるのかな。
親だって、過去には
あ、思い出した!
わたしってば、学生時代、ひたすらセンチメンタルになりたくて、ホントに、ただ泣くためだけに「フランダースの犬」を書店で買い求めたことがあったんだわ!
誰にでもある、痛い思い出。←げらげら。
若かったからこそ、出来たことだとは思います。正直、思い出すだけでも赤面ものですよ、あんたってば、いったい何考えていたの?!って。
でもでも、そういう気恥ずかしいまでの日常のひとコマは、今振り返ってみると瑞々しさがあったというか、天然色に染まっていたというか、その青さゆえの輝きがあったような気がします。
それに比べると、今なんて、色あせてますねー。もう、シワシワでカサカサ、いや、ガサガサかな。(笑)
「あなたの日常を色で例えてみると?」
「んー、鶏がら色?」
そうですよ! まるで、ダシをコトコトと搾り出した後の鶏がらのような、わたしの干からびた感性...。
言わずもがな、ささやかなことに大きな喜びを見出す「チャイルドライク」さが、ここしばらく、すっかりサビ付いてしまっていたのかもしれません。
この辺りで、オイルを何滴か垂らさないとなー。
日常の潤滑油とは
そんな鶏がら、もとい、色あせて乾燥気味だった日常の中、突如として眩しく映ってくれたもの、二つをご紹介。
それは、娘が完成させた色鮮やかなジグゾーパズル。
パズルは100ピースで、あの子には物足りなかったみたいですけれどね、この目の覚めるような色使いが何とも美しく!

ビビッドな色彩の人魚姫
そして、もう一つ、娘が描く独特の表情が楽しいペーパードール。
これまた、人魚姫なのですよ。

ユニークな人魚たち
何の迷いもなく、さささっとペンを走らせてしまうところが、自由な精神そのもの。娘独特の絵柄です。

アップで見てみると
あの子なりのスタイルを確立しているみたいで、親にとっては、どれも宝物。「好きこそ、ものの上手なれ」で、これから、どんどん上達していってくれるでしょう。

もう一枚アップで
毎日を鮮やかに彩るために
こんな風に、豊かな色彩の中で毎日を生きている娘の姿が何とも羨ましくも、また眩しくも感じられますね。

色彩豊かな世界の住人
何せ、わたしなんて、鶏がら、もとい、セピア色世界の住人....。
まあ、大人になるとね、色々と責任が伴ってきて、あんな書類やら、こんな請求書やら...という具合ですからねえ。
でもね、つい時間に追われ、生活に振り回されつつも、こう、自分の歩みを意識してゆっくりにして、一旦、立ち止まる勇気が必要なのかな、と。
変わり映えのしない日常生活においても、現代版・清少納言ではないですけど、「いとおかし」の瞬間をもっと見つける努力。そう、些細な出来事に喜びを見出すことの価値!
例え、娘のように、夢中になって道端のクモやアリを観察することは無くても、木陰でチップモンクを見かけたら、驚こうよ、わたし!
クモの巣が日の光に反射する光景に敢えて注意を払うことは無いにしても、花びらに降りた朝露には感動しようよ、わたし!
そして、何よりも、人にもっと興味を持とうよ、わたし!
社交的な娘のように、すらすらっと言葉が出てこなくとも、せめて相手に笑顔を見せて、「ハイ」と言うことは出来るはず。
電話で一言、「元気にしてる?」や、メールで「久しぶり!」って、家族や友人たちに伝えることだって、そんなに難しいことではないのだから。
娘から学んだ大切なこと。
それは、今を最大限に生きるということなのかも....?