エマ・ワトソン主演の実写版ディズニー映画、「美女と野獣」、アメリカでは、日本に先駆けて3/17(金)公開と相成りました!

映画館内のポスター
わたしも初日に出掛けて、3D版でその内容を確認してきたわけですが。
公開に際して、わたしが個人的にどれほど期待していたかは前回の記事の通りです。
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実写版ディズニー映画「美女と野獣」の見所は?ベルとエマの共通点!
こちら、アメリカでは少しずつ春めいてきています。もう間もなく、デイライト・セイビング・タイム(通称、夏時間)開始ですよ。 イースターも間近。 となれば、重い冬のコートをぱ ...
実際に鑑賞してみての感想は、うーん、良くも悪くもディズニー映画だった、と。
あれだけの前評判の割には、軽く肩透かしを食らったかのような感じかな。
個人的評価を数字で表せば、ぎりぎり、
アニメ版と比べて
この映画、1991年のアニメ版を基にしながらも、実写版では、ベル、野獣共に家族背景や過去をもう少し丁寧に描いています。
ここで分かるのは、ベルと野獣が何だかんだと似た者同士だということ。どちらも、兄弟は存在せず、一人っ子であること。早くに母親を亡くしていること。
二人の性格の違いは、父親が我が子にどう接したのか、という辺りにあることを示唆しています。
この「同類、合い憐れむ」のシチュエーションに、思わず、「源氏物語」の光源氏と紫の君の関係を思い起こさせられたわたしは、やはり、日本人なのでしょう。
アニメ版との大きな違いは、野獣と城とに呪いをかけた妖精が姿形を変えて話の中に留まっていることでしょうか。
実写版の魅力と改善点
予告動画でも見て取れたキャスティングのはまり具合やビジュアルの美しさは、何と言っても、この映画の一番の魅力でしょうね。

城内では、シャンデリアが輝き
他にも、強烈に記憶に残るとは言えないまでも、新たな楽曲が加わったことも新鮮さを増し加えているとは思います。
が、如何せん、肝心のストーリーが弱い!
思いつくままに、問題点を挙げたいと思います。
- 台詞に、しばしば欠けが見られる。十分な状況説明が成されておらず、唐突感がある。
- 編集上の問題だろうが、折角の設定が活かされないまま終っている。
- ファンタジーと現実との融合が甘い。
- 時間配分が拙い。クライマックスに十分な盛り上がりがない。
わたしとしては、2時間9分もの上映時間がありながら、なぜ、ここまでクライマックスへの運びが弱くなってしまっているのか、と思わずにいられないんですよね。

ストーリー運びは、淀みなく
結局は、必要の無いシーンを入れて、クライマックスへの道程を邪魔してしまっている、ということに尽きます。
つまり、キャスティングがオールスター並な豪華さを誇るため、各出演者に華を持たせる意味で、制作側が出演シーンや台詞に政治的配慮を見せたこと、それによって、芸術作品としての時間配分や台詞のメリハリ感が鈍ってしまったということだと思います。
この負の相乗効果により、焦点がぼやけてしまった、と言えるかもしれません。
やはり、ストーリーありきじゃないとね、というのが、わたしの率直な意見です。
もう少し具体的に、問題シーンを見て行きたいと思います。
台詞に見られる欠け
脚本が全体的にミニマリスティックなんですよねえ。
建物にしろ、衣装にしろ、その色彩感と相まって、美しい、それで事足りると思っている節が見られると言うのかな....。

美しい内装
でもね、そんなんじゃ、全然足りないんですよ! 何も観客は、美術品を鑑賞するために映画館に足を運ぶわけではないので。
各々のキャラクターがしっかりと会話をしてくれないと、見ている側に伝わってこない感情というものがあるわけで。
そうした感情の構築がうまく行かないと、今度は共感が出来ないんですよ。共感が出来なければ、感動が無いわけで、せっかくのクライマックスも盛り上がらないんです。
野獣がベルに図書室をプレゼントするくだり、あれなんかも、その意味では大きなチャンスだったと思うんですけど。哀しいかな、アニメ版のような特別感が無いんですよね。
何か、話のついでに、そんなに好きならば、あなたにあげよう、みたいな感じで。
野獣が口下手なのはいいとしても、せめて気持ちを盛り上げる意味で、仕え人に相談しましょうよ。もっと特別な贈り物という演出をしましょうよ、って思ってしまったのですけどね。
設定の甘さ
野獣の城では、マダム・ド・ガルドローブが用意してくれたドレスらしきものを引き裂いては繋ぎ、自室の窓からの脱出準備をしていたベル。
最初は、父親の代わりに自分自身を牢に投じるなど、その不屈の精神が非常に魅力的に映っていたのですけどね....。

ベルの心はいつだって自由
結局、あのドレスで作ったロープ、あの後、どうなりました? 確か、使わずじまいでしたよね?
せっかく、そのシーンに何秒かを費やしたわけで、それを伏線にして、別のシーンに繋げてほしかったです。例えば、ストーリー最後の野獣とガストンとの対峙シーンとかね。繋げられないのなら、初めから使うべきではなかった。
そして、そこまでの脱出にかける思いの強さから、この城を逃げ出すことはよっぽど難しいんだろうな、と観客に信じ込ませてくれたのにも関わらず、野獣に怒鳴られた後、案外、さらっと逃げ出していますよね、ベル。
それを見て、あら、と拍子抜けしてしまったわたしです。
ファンタジーと現実の融合は...
ファンタジーであればこそ、それ以外のところでは緻密な計算に基づいて、地に足を着けた現実感あるストーリー運びと設定が重要な鍵になります。そうでなければ、そこにリアリティーを醸し出せず、全てが偽り化してしまうため。
ベルが野獣に、「シェイクスピア作品の中でも、特に『ロミオとジュリエット』が好きだ」と告げるシーンがあるのですが、ここで一瞬、軽い違和感を覚えた観客は多いはず。

野獣から贈られたものは
シェークスピアの名前で、つい、「そうだよな、設定は1700年代中盤だから、時代考証は正しいんだよな」と現実に引き戻されてしまうんですよ。
次に、「え、でも、『ロミオとジュリエット』?! ベルって、もっと独立心あるタイプなんじゃないの? そういう人間が、こういう恋愛ものを読む?!」という疑念に駆られ....。
「いや、どうせならば、もっと壮大なギリシア叙事詩とかの古代物、もしくは、冒険物の方がイメージに合ってない?」と、完全に集中力が途切れることで、自分の視点が物語の世界から逸脱してしまうわけです。
こうした、引っ掛かりを覚えさせる現実を投入した後に、今度は別のシーンで、魔力の宿った本を見せる。「強く願えば、どこにでも好きなところに連れて行ってくれる」とか何とか...。
このギャップですよね。現実とファンタジーの世界との行ったり来たりが、上手く融合し切れていないんだよなあ、と。
現実からファンタジー、ファンタジーから現実への移行をスムーズにさせる意味でも、最初からシェークスピアや「ロミオとジュリエット」の名前は出すべきじゃなかったのではないかと思います。
誰もが知っている著者と作品名を使おうという、脚本家の意図は見て取れましたけどね。
今ひとつ盛り上がりに欠けるクライマックス
突き詰めて行けば、この作品の重要人物は、ベル、野獣、ガストンだけなんですよ。中でも、ベルと野獣のシーンは最優先事項で、二人の感情のやり取りを大切に見守ってあげなければならないはず。
なのに、そこまでのケアを感じられないんですね。
本来ならば、野獣が口にすべきはずの台詞の多くを別の人間に割り当ててしまったり、野獣のシーンが削減されていたり。
例えば、野獣の城でベルを部屋に案内するのも、西の塔に行くなと告げるのも、野獣の役割じゃないんですよね。
万事がこんな調子で....。
その代わりに、ベルの父親、モリースとガストン(+ル・フウ)のシーンに時間を多く費やし過ぎてしまったり。
正直、無駄が多いんです。
あちこちで枝葉シーンを延々と作り出して時間のロスをやった上、最後の城へと雪崩れ込むシーンへの持っていき方が唐突過ぎて。

時間との戦い
取って付けたように、住民を先導するガストンですが、あの状況で住民は本当にガストンの言葉に納得出来るのかと、そこが一番不満だったわたし。
例えば、元々、生活が苦しかったなり、自分たちの平安が脅かされていたなりの伏線が欲しかったんですよね。自分たちの怒りや恐怖を野獣へと向けるという、もっと見ている側が自然と納得できる感情の流れが必要だったように思います。
まとめ
こうして振り返ってみるに、色彩の美しさと耳に心地良い音楽は、この映画作品の中でそれなりの存在感を放ってくれていただろうとは思います。
でも、どんなに多めに盛っても、わたしの評価はぎりぎり、?でしかないんだよなあ、と。
物語が物語たるためには、ベルと野獣の心の通い合いというものを何を置いてでも、最優先させるべきだったと思うわけです。
豪華キャストも、政治的プロパガンダも関係なく、原作に流れる物語の真髄とも言えるものを大切に掬い上げて、それに最大限の敬意を払った上で、肉付けをしていく。
それが出来ていれば、野獣のシーンや台詞をああまで削るなんてことはあり得ないはず。
そこがね、わたしに言わせれば、ディズニー映画の限界なのかな、と。
「ロード・オブ・ザ・リング(ス)」のような、ストーリーありきの芸術作品とは、質が全く異なりますよね。
この実写版「美女と野獣」、それなりの成功を収めるとは思います。一応、そこそこのストーリーにはなっていますし、ディズニーのブランド力とマーケティングスキルが支えてくれていますので。
でも、芸術と呼べるかと問われれば、違いますよね、残念ながら。
また、長く記憶に残る作品になるか、と言ったら、これもまた違うと思います。
その辺りの観客の感情と言うものが、エンドクレジットでしっとりと流れるデュエット曲のインパクトにも関わってくるのですけどね。

でも、ベルが本と読書を殊更に愛するところ、年下の女の子に字の読み方を教えているところ、独創的な視点を持っているところ、野獣やガストンに口答えをするところなど、これはと思えるシーンもあったな、とは思っています。