「どうか、我が子が幸せな人生を送ることができますように。この子がずっと幸せであってくれますように...」
人の子の父親、母親ならば、これを願わない親はいないでしょう。
我が子が生まれ落ちた日からずっと、晴れの日はもちろん、雨の日も、風の日も、ときに嵐の日でさえ、自らが注ぎ得る愛情を全て注ぎ込み、ひたすら慈しみ、守り導き、育ててきたのです。
我が子とは、親にとっての掌中の珠。かけがえのない、大切な宝物であり、目に入れても痛くない存在です。

どこまでも、幸せな未来が続いてくれますように
にも関わらず、そんな親の心の願いを打ち砕くような凶悪な犯罪ニュースが、国の内外を問わず、多く流れています。
犯罪の犠牲となったお子さんたちを思い、その親御さんたちの気持ちに触れると....。
胸が潰れるような痛みと、犯人に対する激しい憤りを覚えると共に、同じ子を持つ親として何が出来るのか?
昨今のニュースを見聞きするにつけ、立ち止まって、そう自問される方も多いことでしょう。
まさに同じことを考えていた最中、ふと、わたしの記憶を掠めてくれたものがあります。
それは、「Battle at Kruger/クルーガーの戦い」と名付けられた動画。
2004年、南アフリカ共和国のクルーガー国立公園を訪れていたアマチュアフォトグラファーによって、偶然キャプチャーされた、野生動物たちの衝撃的な映像です。
不安、恐怖、苛立ち、憤り、哀しみ、そして、失意。
そんな負の感情と重苦しい空気にどっぷりと?み込まれようとしている、わたしたち、全ての人間へのエールだと感じます。
ぜひとも、この場で、「クルーガーの戦い」をご紹介させてください。
「クルーガーの戦い」

サバナに生息する動物たちの生態行動をつぶさに映し出した、この8分以上にも及ぶ大作は、見事なハッピーエンディングで締めくくられています。
もう一度、繰り返します、ハッピーエンドです。
途中、心臓が早鐘を打つことがあるかもしれません。もしも、そうなった場合、肘掛をぐっと握り締めてでも、最後まで堪えてご覧頂きたいと思います。
「クルーガーの戦い」動画に見え隠れするもの
いかがだったでしょうか?
何年か前、この動画を初めて目にしたときに、わたしが覚えたのと同じ希望の煌きというべきものを少しでも心に感じてもらえるのならば、本当に嬉しく、紹介者冥利に尽きるというものです。
実は、この動画、2007年にYoutubeに初投稿されて以来、現在に至るまで、7,850万回以上の再生数を誇っています。
その間、Youtubeアワードを受賞し、ABCニュース、タイムマガジン、ニューヨークタイムズ、果ては、ナショナル・ジオグラフィックスにまで大体的に紹介されました。
それは、いったい、なぜなのか? なぜ、ここまで視る者の心を揺さぶることが出来たのか?
それは、スイギューたちの姿に、人間としてのあるべき姿を見出したからでしょう。
義憤、気概、勇気、決意、挑戦、勝利。
そして、愛。
親からの子に対しての惜しみない愛。同士を支える、力強い友の愛。
弱肉強食が当たり前のサバナの世界で、圧倒的強者に襲われた弱者の命を諦めることなく、また、強者に対して恐怖でひれ伏すことなく、ひたすら果敢に立ち向かい、小さな命を助け出す親とその仲間の雄姿に、心を揺り動かされるのです。
親としての自分、友としての自分、仲間としての自分、そして、ときに弱者としての自分。
この「クルーガーの戦い」に映し出された野生動物の生態が、人間社会の縮図にも見て取れます。
圧倒的強者、弱者、弱者を守る仲間。この三者三様の姿に、人間社会において子供を守るための何かしらのヒントがあるのではないか、とも思えるのです。
敵が狙うのは
聖書の中に、ライオンを例えに用いた、非常に興味深い記述があります。昨今の犯罪の様相を顧みるに、まさに的を突いたアレゴリーだと思います。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
ペテロの第一の手紙 第5章8節(新改訳版)

弱者を標的にするライオン
「クルーガーの戦い」の動画でも見て取れるように、ライオンも、犯罪に手を染める人間も、相手を圧倒するのに、大抵、決まった手順を取っています。
- 絶えず、己の獲物を探している
- 狙いは、弱い者へと定める
- 狙った獲物を群れから離して孤立させる
つまり、自分が相手を食い尽くすのに、最適な環境を順に作り出していく、ということです。最終的には、弱い獲物を仲間から完全に引き離し、更に逃げ場の無い状況へと追い込んでいくことで、その目的を達成します。
動画中のライオンは、最初から、駆ける勢いの劣る幼獣に狙いに定めています。逃げ遅れ、不幸にも群れから引き離されてしまった弱者が常に獰猛な肉食獣の狩の対象になってしまうのです。
これは、哀しいことに、人間社会でも同様でしょう。昔から、子供の誘拐、連れ去りが後を絶ちません。大抵は、子供が一人でいるところを狙われるケースばかりです。
犯罪心理学者で、東京未来大学こども心理学部長でもある出口保行教授が、こう説明しています。
子どもの連れ去りなどの犯罪の目的の7割は、わいせつ目的です。犯人は、社会に適応できない、自分の能力・容姿に自信がない人間です。気持ち悪いといわれるかもしれないなどと考え、同世代の女性には声をかけることができない。だからこそ絶対的な支配下に置ける子どもに性的なはけ口を求めるんです。
週間女性PRIMEより
野生動物と人間社会の違いとは
もちろん、野生動物と人間社会には、確固たる違いも存在します。
肉食獣にとっての獲物は、貴重な食料であり、サバナで生きていくためには狩を行うしかない、という事実があります。
野生の生態系の見地から言えば、ある意味、それも仕方が無いことなのでしょう。残酷ではありますが。
ただ、己の腹を満たすために獲物を狩るものの、自然の摂理からか、獲物を長く苦しませることなく、息を止める方法は本能レベルで心得ているようです。獲物の喉に真っ先に喰らい付き、絶息させることを習性としているからです。
しかし、人間の手による犯罪は違います。加害者は、何も食に困っているから弱者を襲うのではない。己の暗く歪んだ身勝手な欲求を満たすために、相手を恐怖と苦痛に晒すのです。
数ある犯罪の中には、弱者をいたぶること自体が目的にもなっている場合もあるのかもしれません。
か弱い存在であればこそ、そこを上手く突いて、利用してやろうと考える加害者。
か弱い存在であればこそ、自らが盾になって、我が子を守ってあげたいと願う親。
それだからこそ、被害者の親御さんたちは、自分の手の届かぬところに連れ去られた我が子を思い、誰よりも、何よりも、自責の念に囚われてしまうのだろうと思います。
親として、どうして我が子を守ってあげられなかったのか、どうして我が子が恐怖に晒されているとき、自分がその場にいて助け出してあげられなかったのか、自分はあのとき、どこにいて、いったい何をしていたのか.....。
同じ子を持つ親として、そんな親御さんたちの打ちのめされた、苦しい胸の内を想像するだけで、ただただ言葉を失います。
子供の笑顔を守るために
「どうしたら、この子のきらきらと輝く笑顔を守ってあげられるのか....」

夏の太陽に負けないくらいのきらきら笑顔
わたしが「クルーガーの戦い」動画の中に見出した、その重要なカギとは、以下の4点に絞られます。
- 危険が潜んでいる可能性を常に意識する
- 子供を一人にさせない
- 弱い者を敵の手から救い出すことを諦めない
- 社会が一丸となって敵に立ち向かう
アメリカ社会の意識
犯罪が多発し、今も多くの犠牲者を生み出しているアメリカでは、元々の地域社会への認識が日本のそれとは異なっているように思えます。
いわば、サバナで生活しているスイギューと同じ。ともすれば、肉食獣の姿が見え隠れし、のほほんと構えていられるほど、安全とは言いがたい。
だからこそ、親自らが子供を守るという意識が徹底されているのかもしれません。
安全は、自然の産物ではない。政府から自動的に提供されることもない。
安全とは、即ち、自らが確保し、自らの手で守っていかなければならないものだ、という認識です。
また同時に、社会や子供に関わるコミュニティーの多くが、(万が一、何かあったときに、親と揉めて面倒な訴訟沙汰になりたくない、という別の要因にも後押しされて)、そんな親たちを支える体制を作り上げています。
法律レベルで言えば、子供が一人で留守番することが許される年齢(6歳~14歳までと、地域によって異なります)を定めている州もあるほどです。
何よりも、意識の変革こそが安全の土台となる
アメリカでは、過去に性犯罪を犯した人間の現住所、勤務先所在地をインターネット上で調べることが可能です。
なぜならば、再犯性の高い性犯罪を犯した彼らには、それらを州政府に届け出ることが義務付けられているからです。登録された情報は、地域社会の安全を保つ目的で公に開示されています。
我が家の対応
夫は、娘の誕生後すぐに、わたしたちが住む地域にそうした前科を持つ人間がいるかどうかを調べていました。それによると、2-3人の情報を見つけたようです。
彼らの名前、年齢、外見的特徴はもちろんのこと、過去どういう性犯罪を犯したのか、犯罪の年、危険レベルなども分かるようになっているとのこと。
生活圏が郊外にある場合、どこに行くのも車移動が基本ですが、たまに外を歩くこともあります。
前科持ちの人間が住んでいる周辺には、娘を絶対に近寄らせないのはもちろんのこと、ほんの自宅近所を散歩するときでさえも、夫はわたしではなく、自分が一緒で無い限り、娘を外へ出すこともしません。
我が家では、様々な理由からホームスクーリングを選択しているため、登下校の送迎の必要はありませんが、お稽古事への送迎はしています。
その場合、どんなに長いレッスンでも、その場から親が離れることはありません。必ず、教室やスタジオの外で待機して、娘の様子を見守るようにしています。
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アメリカでホームスクーリング☆美術のカリキュラムはアートクラスで
我が家では、夫婦で話し合った結果、娘にホームスクーリングを行っています。 あの子がキンダーガーテンのときから始めて、今、2年目。 低学年の内は、基本、自前で何とかなるもの ...
学校やコミュニティーの対応
アメリカのキンダーガーテンから高校までの公立学校では、スクールバスによる送迎が通常の登下校の光景になっています。
わたしたちの近隣地域で暮らしていた友人夫婦も、やはり、性犯罪の前科者がどこに住んでいるかをしっかりと抑えた上で、娘さんの登下校時、スクールバスが停まる場所から自宅までの数分間の距離でさえ、ただの一度も一人で歩かせることはありませんでした。
娘さんが私立高校に入学してからは、学校もお稽古事も、全て親が車で行き帰りの送迎をしていました。
聞けば、私立の学校では、親自らの送迎が圧倒的に多くなるようですね。
小学一年から私立のクリスチャンスクールに子供を通わせている別の友人夫婦は、何人かの仲の良い保護者たちとカープールすることで、親の負担を減らすようにしていると言っていました。週に2度、自分の番が回ってくるそうです。
また、子供と関わる仕事は、ボランティアでさえ、バックグラウンドチェックというものが存在しています。
例えば、サンデースクールの先生。
友人が小中学生対象のクラスでボランティアをしていましたが、必ず、事前に性犯罪を犯していないかのチェックを受けることになっている、と言っていました。
特に、子供相手の性犯罪、虐待歴の有無を入念に確認され、そこで何も無いことが分かってから、初めてボランティアで子供と関わることができるのだそうです。
教会のサンデースクールでさえ、その相手が教会員であってすら、リスク回避のために、それだけの意識を持って接しているのが現実です。
現在、わたしたちが通う教会でも、親以外の人間がサンデークラス終了後に子供を迎えに行くことは許されていません。それが例え、親どうしが仲の良い友人であっても、です。
他にも、娘の通うダンススクールでは、リサイタルの際に子供を控え室に連れて行くときは、母親や祖母などの女性保護者のみが通され、そこで予めパスワードを登録することになっています。舞台終了後に、登録済みのパスワードをスタッフに伝えることで、初めて自分の子供を引き取ることができるというシステムです。
どのコミュニティーであっても、子供の安全を脅かす危険人物がいつ、どこに潜んでいるともしれない、という意識があるからこその対応と言えます。
これがもしも、元々安全であろうことが前提になっていたとしたら、こうした融通の利かない、厳しい対応にはなり得ないでしょう。
アメリカ司法省による性犯罪の統計
事実、アメリカで起こる性犯罪では、加害者の大半が顔見知りだ、という統計があります。
見知らぬ人間が危害を加える場合も、もちろんありますが、一般的に言って、相手からの警戒心が立ちはだかって、加害者にとってのハードルが高くなるのだと思います。
そこに行くと、顔見知りならば、相手が気を許したり、ちょっとした隙を晒すということにもなるのかもしれません。加害者は親戚内であったり、親の再婚相手や友人であったり、隣人であったり、同級生の家族であったり、学校関係者であったり。
アメリカ司法省が出した統計によると、成人対象の性犯罪では、70%が知り合いによるものだというのに対し、未成年者へのそれは93%に達するとしています。
詳しい内訳(2000年)は以下の通りです。
- 知り合いや顔見知りによる犯行:59%
- 家族・親戚による犯行:34%
- 見知らぬ人間による犯行:7%
日本の社会では
こうした凶悪犯罪は、何もアメリカの専売特許というわけではありません。
人間社会であれば、犯罪率の違いはあれど、何らかの事件がどこかで起きています。日本でも、不審者、変質者の話題は、しばしば耳にすること。
実際、わたしが日本に一時帰国していた際、そうした不審人物に一度だけ遭遇しています。

枯葉で遊ぶ
わたしの経験
それは、とある日の夕方、まだまだ明るい時間のことでした。
当時、3歳半の娘、小学高学年の姪と公園帰りの道を歩き、横断歩道で信号待ちをしていたのです。
姪の家は、そこからは目と鼻の先。女3人でわいわい会話をしたため、華やかな雰囲気(!)を醸し出していたのかもしれません。
そんなわたしたちに気付いたのか、通りの同じ側で数メートル離れたところに立っていた男性が、こちらをちらりと見たようでした。
ぱっと見、中肉中背で、年は50代後半から60代前半といったところ。
その男性が、何を思ったか、こちらに向かって歩いてきては、わたしたちの背後にある看板を見るふりをして通り過ぎ、またすぐに引き返して、こちらを伺ったかと思うと、元いた場所に戻っていきました。その往復により、男性はわたしたちを間近で2度見たことになります。
あれ?と思いました。
そのとき、歩行者用の信号が青に変わったため、横断歩道を渡り、姪宅の方向へと歩いていったところ、例の男性もわたしたちに少し遅れて全く同じ方向に歩いてきました。
これって、偶然?
いやいや、あの男の行動はやっぱり怪しい。このまま、姪宅に戻ったら、どこに姪が住んでいるかが分かってしまう。今どうこうならなくても、後々、この手の不審者に住所が知られるのは危険だわ、そう判断しました。
「ねえ、あの人、もしかして、後を付いてきてない?」とわたしがこっそり呟けば、「うん、わたしも、そう思った」と姪。
「住んでる家を知られたら拙いから、直接、家には戻らないからね? 家の前を何食わぬ顔して通り過ぎるよ? で、会話しながら、さり気なく早歩きして、次の角を左に曲がる。曲がったら、一気にダッシュ。いい?」
「わ、分かった...!」
角を曲がった瞬間、わたしは、娘をさっと背負い、姪はちらっと背後を伺い、そのまま二人でダッシュ!
「どうしよう、あの人、まだ付いて来てるみたい....!」と姪。
「もう一度、次の角を左に曲がって!」
「うん」
「後ろを確認してみて!」
「うわあっ、あの人もさっきの角、同じように曲がってる!」
「遠回りして、自宅に戻るからね。あの男に姿を見られないように、また左に曲がるよ。走れ!」
何もスパイ作戦ごっこをして遊んでいたわけじゃないんです。「何で、わたし、日本でこんなことになっているの?!」と心臓がバクバクとする中、とにかく、娘と姪を守らなければ、とそればかり。
慣れない道を姪と一緒に走りました。わたしが転べば、背負っている娘に大怪我をさせてしまう。そんなわたしに出来たのは、せいぜい小走り程度のこと。
辺りが薄暗くなってきていたものの、姪の顔が蒼白になっているのは見て取れて。
「大丈夫だからね。いざとなったら、警察に電話するから。あ、ごめん、借りた携帯の使い方、分かんないや」と、ここまで来て、ようやく、気持ちの余裕を取り戻し。
気付けば、わたしには今ひとつ見慣れない景色が広がっていました。
「ここがどこだか分かる?」
「うん、家の近くだよ」
そう答えながら、きょろきょろと辺りを見回す姪。「大丈夫みたい...。あの人、いないね」
「うまく撒けたのかな。でも、あの男と途中でバッタリなんてことになったら危ないから、用心しながら戻ろうね」
曲がり角に出る度、四方を見回すわたしと姪。
ようやく元の横断歩道のあった場所に戻って来られたときには、もう30分以上が経過していました。男の姿がどこにも無いことを何度も何度も確認して、自宅庭に飛び込んだわたしたち。
無事に帰宅出来て安心したのか、どっと疲れが押し寄せるのを全身で感じて....。
今、思い返して、果たして、男が本当の意味で不審者だったのかどうかは、実際のところは分かりません。
あの状況をつぶさに目撃されていたとしたら、自意識過剰だとか、大袈裟だとか、何、格好付けてスパイごっこをしているの、とか。そんな風に言われても仕方なかったかもしれない、とも思います。
けれど、正直なところ、そうした揶揄も、批判も、大人のわたしが喜んで引き受けます、という気持ちです。
大事なのは、あのとき、わたしたちが、皆、無事だったこと。
そして、今も、姪は同じ家から元気に学校に通えているという事実です。
?案外、近くにいるかもしれない
そんなに悪い人間がうようよしているものだろうか、と思われるかもしれません。
日本のように、一見平和で、人間に善性を見出すことを得意とする社会では、人の心の奥底にまで敢えてアンテナを向けるということには慣れていないような気がします。
「誰も見ていないところで、自分よりも弱い立場の人間に対してどういう態度を見せるかで、その人間の真価を判断できる」というのが、わたしの持論でもあります。
ライオンが最初は茂みに身を隠し、最初から姿を見せて襲い掛からないのと同様に、圧倒的強者が躾や指導と称し、弱者を虐待するケースはいくらでもあるのではないか、と思います。
人が子供に対して、男性が女性に対して、上司が部下に対して、教育者が学生に対して、医療従事者が患者に対して、老人施設のスタッフが入居者に対して。
リストはこれだけに留まらず、身体・知的障碍の有無、学歴、地位、富の差など、延々と続いていくかもしれません。
ニュースを見聞きするだけで、このパワーバランスの中で様々な虐待が存在することが分かります。ドメスティックバイオレンス、セクハラ、パワハラ、ドクハラ....、そんな言葉が絶えず踊っています。
守られる立場の子供の中でさえ、ときに力の上下関係が存在するのが現実です。例えば、クラス内の苛め、先輩から後輩に対しての執拗な嫌がらせ、転校生に対しての圧力等。
自分の保持する権威、権力、力を、自分は弱者に対して、どう行使するのか、しないのか。その答えが、その人間の真価を試してくれるのだと思います。
どんなに身奇麗にして紳士淑女に見えたとしても、その心の内に何が潜んでいるのかは、また別の話でしょう。富も、名声も、肩書きも、学歴も、その人間の本性を保障するものではないのです。
泥棒は、何も頬かむりをして、唐草紋の風呂敷を背負いながら、いかにもな様相でやってくるわけではないでしょう。
最近では、怪しまれないよう、ピシッとスーツ、ネクタイを着用し、すっきりと髭を剃り、白い歯を見せた爽やかな笑顔で、アタッシュケース片手にやって来ると聞きます。
人間の本質を見極めるための判断基準
アメリカに、20世紀中盤までの激動の時代を生き、頑なに聖書の真理を語り続けた、有名な牧師がいます。その名は、A.W.トーザー。キリスト教会の教団、教派の枠を超え、今も尚、敬愛される存在です。
そのトーザーが遺した、人間の深層へと鋭く迫る名著の数々。その一つに、自らが名付けた「自己発見のための法則」という珠玉の知恵が綴られています。元々は、自分が真に何者であるかを知り、内省を促すための判断材料として紹介されていたものでした。
《自己発見のための法則》
- 自分が最も欲しているものは何か。
- 自分が最もよく考えていることは何か。
- 自分がお金を使うのは何に対してか。
- 自分の自由になる時間にしていることは何か。
- 自分が好んで付き合う相手はどんな人間なのか。
- 自分が賞賛・感心するのはどんな人物か、何に対してか。
- 自分が笑うのは何に対してか。
A.W.トーザー (日本語訳:更紗)
最近、わたしが思うこと。それは、この法則を相手が何者かを知る目的でそのまま適用することも可能なのではないか、と。
子供を犯罪から守るためには、子供の周りにいる人間の本性を見極めていくことが不可欠になってくるわけで、そのためには、結局のところ、その人間の心の内を探るしかない方法は無いと思うのです。
上記7項目の中で、全部が全部、外に漏れてくるということはないでしょう。本人自らが口外しない限りは。
その代わり、一緒にいて、相手の言動でふと気づくことがあるかもしれません。特に、最後の「笑うのは何に対してか」辺りが、その人間の本質を知る意味で、重要な判断材料になってくれるのではないか、と思います。
その人間は、他人の容姿をあげつらって笑うタイプなのか、人の失敗を声高に吹聴するタイプなのか、人の不幸を繰り返し話題にするタイプなのか、苛められている人間を見て一緒になって笑うタイプなのか、等。
また、その人間が話すジョークの内容でさえ、心の内に隠し持つ価値感というものを垣間見せてくれるのだと思います。
昔と今

寒さの中でもへっちゃら
昔も、幼い子どもを対象とした病的な性的嗜好を持っている人間は、一定数いただろうと思います。人間の本質が変わらない限り、今になって、劇的にその数が変化するとは考えにくいものです。
ただ、昔に比べ、そうした後ろ暗い欲望を実現させるのを抑制する力が弱まっているのかもしれない、と思えます。今までならば、家族単位で築かれていた堅固なやぐらのどこかに、何らかのヤワな部分や、隙間が生じているのかもしれません。
核家族が多くなったというだけではなく、離婚・再婚、シングルペアレント等の増加もあり、日本の家庭の形態が更に多様化しているという現実です。
昔に比べて、家族単位が小さく、またときに複雑になっている中、多くの親が家計を支えるため、自宅外で長時間、懸命に働いているという事実。誰しもが忙しい毎日を送っているのです。
こうした家族スタイルの変化や変遷を迎える中で、敵の視点によれば、潜り込める隙間というものが存在するのかもしれません。何しろ、相手は食い尽くすべき獲物を求めて、常にチャンスを注意深く探しているのです。その隙の在りかにも敏感になるのでしょう。
家族形態が欧米のそれに似通って多様化していき、また治安の悪い母国のあり様を熟知している外国人住民も増えていく中で、社会の意識だけが昔ながらの「日本は安全だ」では、犯罪への抑止力が更に減退していくのではないか、と危惧します。
正直、日本の治安の良さは、日本を離れ、海外に在住する者にとっては、誇るべきものでした。でも、どんなに認めたくなくとも、社会は少しずつ、確実に変わってきているのだと思います。
その中で、大切な子供を守るためには、やはり、欧米並みの安全への意識を持つ必要が出てしまうのは仕方が無いことなのかもしれません。
今、できること
我が子の純真無垢な子供時代を守るためには、親が無邪気なままでいてはいけない。危険を未然に防ぐためには、地域社会が無知でいてはならない、というのがわたし自身の考えです。
様々な知恵と見識を身に付け、武装する必要があるのだ、と。
「安全」が偶然の産物でないのと同様に、「信頼」もどこからか降ってくるものではない。努力によって勝ち取るべきものです。人は自分が何者かを、その言動によって証明し続けた末に、ようやく他人からの信頼を勝ち得ることが出来るのです。
我が子の盾であり、城壁であるべきはずの親が、相手の地位や職業、肩書きのみに惑わされて、自らの信頼を簡単に与え、城に続く門を容易に開けることがあってはならない、と思います。
殊、子供に関わることでは、トーザーの「自己発見のための法則」を他人にも厳しく当てはめ、果たして、その人間が信頼に値するかどうかを注意深く吟味する必要があるのでしょう。
でも、中には、「そんな大袈裟な!」と親を批判する人間も、おそらくは出てくることでしょう。過保護だ、モンスターペアレントだ、等....。
特に、我が家ではホームスクーリングをしているくらいですので、こうした揶揄には、ある意味、慣れています。
もちろん、我が子をずっと手元に置いておくことが出来ないことは、十分承知しています。いずれは、娘が一人で大空を翔ることができるよう、親の掌から飛び立たせてあげなければならないことも。
ただ、少なくとも、今はそのときではない。未だ7歳という幼い娘を、ひたすら愛し育み、保護し、教え導く期間だと考えています。
わたしに言わせれば、大袈裟、過保護、心配性、神経質など、周りのそうした批判や非難、噂話--いわゆる、火の粉も、汚れ役も--、親が喜んで引き受ける覚悟です。
仮に、そのせいでモンスターペアレントと呼ばれることがあったとしても、我が子を醜悪な存在から守るためならば、名誉な肩書きだとすら思えます。
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親が子供にリード?お出かけ時にかわいいハーネスリュックを使う理由
桜に代表される日本の春は、とっても美しい季節ですね。そこから続く秋までのシーズンは、どこの家庭でも何かとお出掛けの機会が増えるはず。 春、それは、お出掛けしたくなる季節で ...
その上で、社会が一丸となって、犯罪を許さない、自分たちの領域に邪悪なものが入ることを許さない、という強い意識を持つことが重要なのではないか、と。
何も、それは、大それたことをしよう、ということではありません。ちょっとした注意でいいのです。
自分が出掛けた先で、不審人物がいないのか、さっと見渡してみる。おかしいと思えば、もうしばらく観察した上で警察に通報する。
自宅の庭の水遣り時でも、買い物中でも、もしも一人で歩いる子供がいたとしたら、自分の立っているところから少し注意して見守る。
或いは、自宅に防犯カメラを取り付ける、車にドライブレコーダーを搭載したい、という人もいるかもしれません。
本当に自分の出来る範囲でいいのです。社会の一員として、犯罪を許さないという意識の下、何らかの行動に移すことが出来さえすれば。

アリの世界を中心とした、昆虫たちの葛藤を、ピクサーならではのスピード感溢れるストーリー構成とエンターテイメント性の高さで、お子さんと一緒に楽しく鑑賞できるものに仕上げています。
何よりも、この作品の中で紡ぎ出されるメッセージが優れているんです。一匹の勇気をきっかけに、アリ社会の意識が変わり、最後は皆で一丸となって敵へと立ち向かう姿。
事実、「クルーガーの戦い」動画に通じるものがあるのではないかな。自分が属するコミュニティーの安全を守るために、何を思い、何を成すべきかを、数々のユーモアと笑いを交えながら、問いかけてくれる映画です。
?偶然見つけられたカオス理論
だって、それは、フィクションの世界のことでしょう? そんな些細なことで、いったい何の効果があるというの?
悲惨なニュースを見聞きする度に、そう懐疑心を?き立てられることもあるかもしれません。ときに、絶望的な気持ちにさせられることすらも。
でも、「バタフライ効果」と名付けられたカオス理論をご存知でしょうか?
これは、マサチューセッツ工科大学/MITの気象学者、エドワード・ロレンツが偶然発見した理論なのですが、これもまた、「クルーガーの戦い」動画同様、まさに今の社会を生きるわたしたちへのエールでもあるように思えるのです。
事の始まりは、ロレンツが1961年、気象予報プログラムを開発しようと、初期変数を変えながらコンピューターシュミレーションをし、様々な気象パターンを観察していたときのこと。
本来ならば、計算結果を正しく検証するため、同一データを何度か繰り返し入力して、複数回に渡ってシュミレーションする必要があるそうです。
最初、ロレンツは、初期値として、0.506127を入力していました。次に、再度、同一の数値を入力しなければならないのにも関わらず、急いでいたこともあり、コンピューター用紙に印字されていた0.506を入力するに留め、一旦、研究室を離れたのです。
1時間後にコーヒーブレイクから戻ってきたロレンツは、シュミレーション画面を見て驚きます。予想していた気象結果とは、全く異なるものがそこに存在していたからです。
ロレンツは、コンピューターが壊れたのか、プログラムに問題が出たのかと困惑しながらも、慎重に調査していきます。そして、コンピューターにも、プログラムにも問題は無く、唯一の違いは、前回、入力されなかった0.000127という、非常に僅かな数値差であることが明らかになったのです。
一見、何の意義すらもないような、その数値差こそが、ここまで甚だしく気象パターンのシュミレーション結果を変えてしまった原因だったわけです。
つまり、蝶の羽ばたきで起こされるような、ごくごく僅かな空気の揺らぎすらも、大気の中では何らかの影響力を持ち、それが巡り巡って、後に竜巻の起こる場所を変えてしまうことにもなる、という革新的な理論が導き出されたのです。

ささやかな羽の揺らぎすら
この「バタフライ効果」は、気象学や力学、また科学の領域に限らず、何か人間社会にも通じるものがあるのだと思えます。
ほんのささやかな親の努力が、ほんのささやかな社会の注意が、巡り巡って、後に大きな変化と変革をもたらすことに繋がってくれるのだ、と。
この些細な意識こそが、悪の覚醒を抑制し、社会の安全を確保し、その結果、何人もの子供の命が救い出すことにもなってくれるのかもしれないのです。
光の当たる場所
日米両国で生活した経験を持ち、世界の犯罪ニュースにも触れたわたしが最終的に辿り着いた結論は、これです。
悪は確実に存在する。悪が最初に手をかけようとするのは、決まって、か弱い者たちだ。だが、同時に、悪は光の当たる場所を避けたがる。それは、闇の中で己が成すことを日の下に晒すことを極端に嫌うからだ。
by 更紗
だからこそ、わたし自身は確信しているのです。
親の目が光る場所こそが、どんな南向きの窓辺よりも、日の光がさんさんと降り注いでくれる、圧倒的に明るい場所なのだ、と。

煌く春の季節がまたやってきて
「四季が移り変わり、時が流れても、我が子のきらきらと輝く眼差し、無垢な笑顔をいつまでも守ってあげたい」
それこそが、子を持つ親の心からの願いです。